青木功のプロ初優勝と“AO時代”の幕開け/残したいゴルフ記録
国内男子ゴルフのツアー制度が始まった1973年より前の記録は、公式にほとんど残されていません。本連載では、ゴルフジャーナリストの武藤一彦氏が取材メモや文献により男子ツアーの前史をたどり、後世に残したい記録として紹介します。
「オレの時代が来るよ」
1973年のツアー立ち上げに向けて、大会開催にスポンサーが次々と名乗りを上げ活気がみなぎっていた時代。青木功の初優勝は、当時プロ7年目の71年6月「関東プロ選手権」(横浜CC・西)だった。初日「69」、2日目「66」で首位に立つと、人数を絞った1日36ホールの決勝ラウンドに入り、またも「66」でリードを広げる。最後のラウンドは「72」。通算「273」ストロークとして、2位に6打の大差で逃げ切った。プロデビューから36戦目。「これまでオレに足りなかったのは優勝だけ。自分のゴルフをできれば勝てるということが分かった」と胸を張った。
通算15アンダーは大会史上最多アンダーパーを記録。「コースレコード?パットがめちゃ入った。ラインの乗せ方が分かった。オレの時代が来るよ」。キャッシュインタイプの米国製パター『サイレントポン』のトウを立てて、ハンドダウン、クローズドスタンスからタップして打つ独特のパッティングが面白いように決まった、と鼻をうごめかした。
28歳10カ月。180センチ、70キロ余り。しなやかな長身から関東一の飛距離を誇る青木の、円熟期の勝利。勝負どころで出る“ポカ”と戦った7年間が、ようやく実った。
初賞金まで遠かった駆け出し時代
青木といえば短いスポーツ刈りに、タートルネックの丸首ウエア。1964年に2度目のプロテストでプロ入りし、デビュー戦は65年の「関東プロ」、2戦目は同年の「日本プロ」だった。しかし、しばらくは3年連続出場の「関東プロ」を含めて1回も予選を通れず。初賞金は68年の「日本プロ」(習志野CC)で、3位に入り45万円を手にした。だが、この時の優勝者が関西の同期プロ、島田幸作(宝塚)では、うれしさも半分といったところが本音だろう。
1969年に、本腰を入れてアジアサーキットに初参戦し、フィリピン、シンガポール、マレーシア、タイと海外4戦をプレーした。日本最古のスポンサートーナメントである「中日クラウンズ」にも初出場し、このシーズンに初めて年間12戦を戦った。その成果が、70年の「日本オープン」(埼玉・武蔵CC笹井)であらわれる。2日目に首位に立つと、最終日の最終18番まで橘田光弘(廣野)と首位に並ぶ接戦。しかし、その18番で橘田にアイアンショットを30センチにピタリと寄せられて敗れた。
プロゴルフの世界は甘くない。運にも見放されていたのだろう。関東一の飛距離を持ちながら、勝負どころに来ると必ず曲げる荒っぽいゴルフが青木を悩ませ、重圧となった時期。さらに70年にプロデビューしたライバル、尾崎将司の存在が、青木をさらに苦しめた。
関東プロ連覇「ジャンボに負けたくなかった」
年齢で5歳、学年で4つ下の尾崎は、本格参戦した1971年に、300ydを超えるドライバーショットと驚異的な小技とパットをバックに9月、宮崎フェニックスCCの「日本プロ」で初優勝をあげた。難コース・広島CC八本松の「瀬戸内海サーキット」で2週連続優勝。さらに「日本オープン」3位のあと、「ゴルフダイジェスト」で3勝目。シーズン末の「日米対抗」個人戦、そして最終戦の「ゴルフ日本シリーズ」と、瞬く間に5勝をあげた。青木が「関東プロ」で初優勝を飾った、わずか3カ月後のことだった。この年、尾崎は当時の年間史上最高額となる1812万5000円を手に賞金王に座った。この快挙を期に尾崎は、74年まで優勝回数と賞金額を上乗せし、4年連続賞金王に君臨したことは既述した通りだ。
1972年の関東プロ(神奈川・磯子CC)は豪雨で54ホールに短縮され、首位争いは青木、尾崎に河野高明が加わる大混戦。最終日、河野が最終ラウンドを8アンダー「64」であがりトップに立った。食堂で祝杯をあげていたが、青木が「65」と巻き返し、尾崎も「68」と踏ん張り、最終ホールで首位に並ぶサドンデスのプレーオフとなった。
その2ホール目の17番パー5で、青木は300ydショットでフェアウェイ。負けじと尾崎も、その15yd先のフェアウェイへ。青木は7番アイアンでピンまで4m、尾崎は9番アイアンで8m。尾崎のパットはカップをなめて入らず。青木は得意のスライスラインをカップの奥にぶつけると、ボールは10cmほど飛び上がり、カランとカップに音を立てて消えるイーグル決着となった。「俺だって8年もやっていれば執着心が出てくる。ジャンボに負けたくなかった。優勝回数では負けているけど、1対1なら負けるわけにはいかなかった」。
プレーオフ前の時点の優勝回数は、青木1勝に対して尾崎10勝。圧倒的に尾崎優位に見えたが、ゴルフの勝負は神のみぞ知るだ。“AO時代”の始まりだった。(武藤一彦)