最古の「日本プロ」は記録の宝庫 36ホール再戦とまさかの悲劇/残したいゴルフ記録
国内男子ゴルフのツアー制度が始まった1973年より前の記録は、公式にほとんど残されていません。本連載では、ゴルフジャーナリストの武藤一彦氏が取材メモや文献により男子ツアーの前史をたどり、後世に残したい記録として紹介します。
第1回「日本プロ」は6人で開催 一日36ホールの戦い
今年で88回目の開催を迎える「日本プロゴルフ選手権」。日本最古のプロ大会は1926年に産声をあげ、その第1回大会は“記録の宝庫”としていまなお語り継がれている。
同年7月4日。日中を通して雨が降り続く中、第1回「日本プロゴルフ選手権」が一日36ホールのストロークプレーで争われた。前年に新設された大阪の茨木カンツリー倶楽部で、午前と午後に18ホールずつをラウンド。関西4コースの主催、大阪毎日新聞社後援で行われ、当初は「関西プロ争奪戦」と呼ばれたが、のちに「日本プロ」と認定されたのは、関東の選手が出場する全国規模の大会だったからだ。この時期、日本に7人しかいなかったプロゴルファーのうち6人が出場した成績は以下の通り(カッコ内は所属コース)。
プレーオフ進出から一転…プロゴルフ最初の失格者に
大会は、34歳の福井覚治と、23歳の宮本留吉が首位でホールアウト。しかし、32歳の越道政吉も首位に並ぶ「161」で上がりながら失格と、想像もしない展開が待っていた。通常なら失格者のスコアは記載されないが、日本プロゴルフ協会の記録に残されている。歴史に残すべき資料としての配慮があってうれしい。
失格は、大会にとっても試練の判断だった。首位に並んだ3人は、大会規定により3日後の10日(土)に改めて36ホールの長丁場でプレーオフを行うことになり、会場は興奮のるつぼと化した、さなかだった。大会本部は、越道の午前18番のウォーターハザードの処置をめぐるルール問題で紛糾。結局、越道は“プロゴルフ史上最初の”失格となり、晴れがましい舞台は一転、悲劇と化した。100年に及ぼうかという日本ゴルフ競技の歴史において、プレーオフ出場が決定しながら失格となったのはこの時が最初で最後である。
36ホールの史上最長プレーオフは“師弟対決”
日本のゴルフ競技史上最長の36ホールで争われたプレーオフは、宮本が午前「72」のパープレーで回り、福井に7打の大量リード。午後はともに「81」で差は変わらず、栄えある初代チャンピオンに若者が輝いた。宮本は長打とホームコースの利をいかんなく生かし、研修時代に10カ月弟子入りした福井に圧勝した。
ここで、惜しくも優勝を逃した福井について触れておきたい。1920年に、兵庫の舞子カンツリー倶楽部(現在の垂水ゴルフ倶楽部)で日本人のプロゴルファー第1号になった。東京で2度目の五輪が開催予定の2020年は、プロ生誕100年の記念すべき年だ。その年に、4年前に五輪種目に復活したゴルフが、初めてアジアで開催されるのは何かの因縁だろうか。
福井は1892年(明治25年)10月9日、日本ゴルフ発祥の地・神戸ゴルフ倶楽部がある六甲山を望む大阪湾沿いの町、青木(おうぎ)に生まれた。自宅が、六甲ゴルフのリゾートコースとして日本で2番目に生まれたコース、横屋ゴルフ・アソシエーションに隣接していたことからキャディとなり、舞子CC創設とともに28歳でプロ入りした。英国生まれの茶商、アーサー・ヘスケス・グルームによって日本にもたらされたゴルフは、彼らのバッグを担いだ少年キャディによって日本に根付いた。少年たちはやがてゴルフを覚え、コース造りやクラブ修理を覚え、ゴルフ発展の原動力となったのである。
個性豊かなレジェンドたち
5位の村上伝二は、慶大の野球部所属でハワイ初遠征の一塁手兼投手とし活躍。鳴尾のメンバーとしてアマゴルフ界で活躍したあと、プロ入りの学士プロである。さらに根岸(横浜)から出場した3位の関一雄は、関東学院大の前身である専門学校卒で、英語も堪能のインテリだったらしい。いずれ、どこかで取り上げるべきレジェンドたちである。
失格した越道に、プロゴルフで最初の失格者というレッテルが張られることになったのは気の毒だが、越道はその後、草創期のゴルフ界で活躍してくれた。越道の失格は歴史が語る厳しい事実だが、運命を受け止めて健気に歴史を支えた。(武藤一彦)
【編注】本文中におきまして、次回は「関西オープン」を取り上げる告知をいたしましたが、テーマを日本人初の年間グランドスラムに変更してお届けいたします。