2018年 マスターズ

50年前の大事件 '68マスターズの光と影 1

2018/04/02 14:45

スコアカード誤記で…

2018年1月25日、パームスプリングスにてフレドリック・ブローデン撮影

1929年生まれで68年「マスターズ」王者のボブ・ゴールビーが、デ・ビセンゾの悲劇、ツアーの面白人物列伝、そしてバスケットボールで14試合連続退場になる方法について語った。

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ゲーリー・プレーヤー(南アフリカ)が絶妙なことを言っている。「われわれは1日10時間コースでプレーしたり練習したりして過ごす。だから、最低でも2分間は、自分のスコアカードが正しいか確認すべきだ」。ゴルフルールが厳格であることを考慮すれば、ゲーリーに反論する余地はない。ただ、面白いことにスコアカードの誤記はあとを絶たない。私は少なくとも年に1回は、この災難に関する記事を読み「またか」と思うのである。

1968年「マスターズ」最終ラウンドで、私が18番をプレーし終えたとき、私を含む誰もが、私とロベルト(デ・ビセンゾ)が首位で並んだと思った。私はグリーン奥にあったスコア記入用のテーブルへと歩いて行った。その場は、ちょっとした混乱状態になっていた。ロベルトとトミー・アーロン、そして私の同伴競技者であったレイ・フロイドと、たしか競技員が一人そこに座っていた。ロベルトは私より2ホール前をプレーしていたので、なぜ彼はまだその場にいるのか漠然と疑問に思った。私は「どうやら明日一緒にプレーするようだね」という意味の言葉を、ロベルトに投げかけたのを覚えている。

しかし、ロベルトはひと言も発しなかった。彼はなにか考え込んでいるようだった。だが、あまり気にはならなかった。私は自分のスコアカードの確認と署名に全神経を集中していたから。それを終えてテーブルを離れ、グリーンの近くにいた。ぶらぶらしていたサム・スニードが私の姿を認め、彼とドック(ケリー)・ミドルコフが私のところへやってきた。CBSのホール中継の仕事を終えたばかりのドックは「君はたった今、優勝したよ」と私に言った。私は「あんた、いったい何を言っているのだ?」と返答した。スコアボードを見上げると、通算11アンダーでロベルトと私は並んでいた。テレビ放送用のヘッドギアを通じて情報を得たドックは「ロベルトはスコアカードでしくじったのだ」と言った。

ことの経緯はこうだ。トミー・アーロンが、ロベルトと同組でプレーして彼のスコアカードを付けていた。17番でトミーはロベルトのスコアを「4」と記入したが、実際ロベルトはバーディの「3」だった。スコアカードをチェックし、正しいことを確認するのは選手の責任であり、署名をしてその場から去ってしまえば、それっきりとなる。私は常に自分のカードを注意深く何度も確認し、各ホールにチェックマークさえ付けていた。こうしたエラーは往々にして起こるものなので、ほとんどの選手は私のような手段で確認する。本当に毎週起こるといっても過言ではない。

たとえば、私と君が一緒にプレーをしたとしよう。私は自分のスコアほど注意深く君のスコアを記録しないだろう。振り返ってみると、私はその「マスターズ」で土曜日にロベルトと同組でプレーしたのだが、ホールアウト後、座って確認作業を始めると、私が1番ホールのスコアを確認し終わらないうちにロベルトは自分のカードを提出してしまった。私がつけたスコアはあっていたので、特に問題にはならなかった。とにかく、それが彼の流儀だったのだ。そして結局はそれが大きな代償になった。

表彰式はしかるべき有様にはならなかった。私はロベルトの隣に座り、彼を慰めることに最善を尽くした。私が彼の足を軽く叩く映像が残されている。私には人生でもっとも大きな大会で優勝した者が得るべき高揚感は一切なかった。居心地が悪かった。ロベルトにとって悲惨な出来事だったが、私にとっても同じくらい不運な出来事だった。私は一度も自分の功績に対する正当な評価を得ていない。ものすごく良いプレーをしたし、特に日曜日はそうだった(デ・ビセンゾが間違って提出したスコアと同じ「66」をマーク)。

コンクリート詰めにして海へ沈めるべき

1968年「マスターズ」の表彰式で並んで座るビセンゾ(左)とゴールビー(右)(Bettmann/Getty Images)

当時、私はプレーオフになっていれば良かったと言ったが、それは“ペナルティによって私の勝利がすぐに決まる”のではなく、“ペナルティによってプレーオフになっていれば良かった”という意味だ。私には勝利を拒否する術などなかった。そうすることは、オーガスタ・ナショナルや「マスターズ」に対し、著しく礼を欠いていただろう。またそれは、ゴルフルールに対する孤高の反抗となっていたはずだ。少しの時間考えてみて欲しいのだが、そのような状況でルールの受け入れを拒否するゴルファーなど、どれくらいいるだろう?“何が正しいのか“ということに対して自分の規則を主張する人間など、そうはいないだろう。私はこのゲームより上位に自分を置くつもりなど毛頭無かった。

私には、史上最低の糞野郎だ、というようなことが書かれた嫌がらせの手紙が信じられないくらい大量に送られてきた。ある男など、「お前とソニー・リストンをまとめてコンクリート詰めにして海へ沈めるべきだ」と書いてきた。非難と支持の割合は、10対1で非難が多かった。手紙は山積みとなり、そのすべてが私を傷つけた。しかし、どういうわけか、私はこれらの手紙を保管してきた。なぜかは分からない。もしかしたら、いつの日か、人々にこの経験がどのようなものだったのか、説明するためなのかもしれない。

ロベルト(昨年94歳で他界)と私は、あの「マスターズ」前から、その後も長い間、友人だったということは周知されるべきだろう。兄弟のようではなかったが、レジェンズ・オブ・ゴルフの大会で2度ペアを組むほど仲は良かった。

この世で最も高潔な精神の持ち主

長年、心に閉まってきた話を聞かせてあげよう。これは本当の話だ。というのも、私にこの話をした晩年のジャック・タットヒルはこの世で最も高潔な精神の持ち主だったのだから。68年「マスターズ」の3週間後、ロベルトは「ヒューストン・チャンピオンズ国際トーナメント」で優勝した。ジャックはPGAの大会ディレクターを務めており現地にいた。

彼はロベルトがカードに署名せずにスコア記入テントを去ってしまったと私に言った。この場合、失格のペナルティが下される。そのとき、ジャックは一方でルールブックの文言と、もう一方で、再びロベルトがスコアカードのミスにより失格になったときに起こるとんでもない混乱を天秤にかけなければならなかった。君ならどうする?ジャックはロベルトを探して見つけ出し、テントへ連れ帰ってカードに署名させたのだ。

タットヒルはとても誠実な人間だった。彼は1972年の「マスターズ」で競技委員を務めた。あれは2番ホールで起こったことだったが、アーノルド・パーマーがバンカーからの脱出に失敗し、怒りにまかせてクラブで砂を強く打った。ジャックはすぐさま、バンカーでクラブをソールしたとしてアーノルドに2罰打を科した。それは完全に正しい判定だったが、ラウンド後、競技委員たちが招集されペナルティを撤回することが決定した。オーガスタでは時折、そういうことが起こっていた。しかし、ジャックはこの一件に納得しなかった。彼は馬鹿にされたと感じ、それ以降、そこで競技委員として働くことを拒絶した。

テレビのあるネットワーク局が、ロベルトと私の一騎打ちを実現させるという企画を思いついた。数日後にオファーがきた。我々が木曜日にアクロンのファイアーストーンでプレーするという内容で、提示された金額は9万ドルだった(当時、「マスターズ」でゴールビーが手にした優勝賞金は2万ドルで、デ・ビセンゾは1.5万ドルだった)。ロベルトにいくら提示していたのか知らないが、私は断った。私の身になって考えてもらいたい。もし私が承諾してロベルトが私を負かしたら、私は実質的にはグリーンジャケットを失うことになる。もし私が勝てば、よい小遣い稼ぎにはなるが、だからどうしたというのだ?

(米国ゴルフダイジェスト誌 2018年4月号掲載)

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