瀬戸際で昇格を決めたスペインの大器ペップ・アングレス
ペップ・アングレスの母親は、彼が子供の頃にモトクロスへの情熱を断ち切らせたことで、我が息子を守ったと思ったことだろうが、愛息が来季ヨーロピアンツアーへの昇格を懸け、ヨーロピアンチャレンジツアーのトップ16を懸けた心身ともに疲弊する戦いに身を晒しているのを見た際は、無力さを感じたことだろう。
欧州の二部ツアーは「ヒーロー誕生の場」として知られているが、シーズン最終戦の「NBOゴルフクラシックグランドファイナル」は夢が打ち砕かれる場でもあり、スペインの若者は昇格へ向けたボーダーラインである「ロード・トゥ・オーマン」ランキング16位でマスカットへと乗り込んだ。
初日を「66」でラウンドし、ランキングで彼のライバルといえる存在が出遅れたことで、23歳のアングレスはヨーロピアンツアー昇格へ向け大きく前進したかに見えたが、アルモウジゴルフでの劇的な最終日は予想に反して神経のすり減る展開となった。
アングレスは序盤でボギーが先行すると、突如としてチャージをかけたイェンス・ダントープとアドリアン・サディエに土壇場でかわされるも、最後はなんとか必要とされる順位を守り切り、結局は14位で「ロード・トゥ・オーマン」を終え、「レース・トゥ・ドバイ」2017年シーズンの切符を手にしたのである。
「言葉がありません」とオマーンでのラウンドに述べたアングレス。「今は、どんな言葉でも足りませんが、僕は僕らが成し遂げたことをすごく誇りに思っています。“僕ら”と言いましたが、この達成にはキャディのジョルディも含まれるからです」。
「シーズン中盤で怪我をしてしまい、いくつも大会を欠場しなくてはならず、毎回キャディを変えていたのですが、ジョルディに声をかけてもらえたのは幸運でしたし、僕らは共に信じられないような仕事をやってのけることができたと思います」。
2015年末にプロに転向したばかりのアングレスは、チャレンジツアーにフルで参戦できるシード権を持たずにシーズンをスタートするも、招待枠で出場した「マドリードチャレンジ」では、その機会を最大限に活かして3位に入った。
その後、イタリアとスイスでトップ10入りを果たしたアングレスは、重賞大会の「ロレックストロフィー」で大躍進を遂げる初優勝を挙げそうになるも、17番と18番で連続ボギーを叩いて2位タイで大会を後にした。
それでも、「海南オープン」で2位に入り、トップ16の座を固めたアングレスは、オマーンの最終日こそ緊張の高まる展開を強いられるも、米国の大学ゴルフからチャレンジツアーを経由してヨーロピアンツアーへの昇格を決めたのである。
「ゴルフは11歳のときに始めました」とアングレス。「子供の頃はモトクロスレースをやっていたのですが、怪我をしたことで、母からは常に止めるように言われ続けました。ゴルフは近所の小さなパー3コースでプレーし始め、最初のうちはそこでプレーしていました」。
「12か13歳の頃に、大きなゴルフコースで初めてプレーして、それから本格的にゴルフをプレーするようになったんです」。
「米国への留学を決断したとき、プロになりたいと思いました。高校はスペインで、そのときはエンジニアリングを学びたいと思っていました。しかし、それだけ大変な学科を専攻する以上、同時にスポーツの練習も続けるのは難しいことですので、勉学とスポーツの両立ができる場所を探さなければなりませんでした。それで、両立が可能なアーカンソー行きを決めたんです」。
「テレビでタイガー・ウッズを見ていたときのことはよく覚えています。彼は子供の頃からのアイドルでしたから」。