国内男子ツアー

世界を驚かせた日本のレフティ/残したいゴルフ記録

2021/01/26 15:30
学士プロで国内最初の「マスターズ」出場を果たした羽川豊(武藤一彦氏提供)

国内男子ゴルフのツアー制度が始まった1973年より前の記録は、公式にほとんど残されていません。本連載では、ゴルフジャーナリストの武藤一彦氏が取材メモや文献により男子ツアーの前史をたどり、後世に残したい記録として紹介。今回は海外に目を向け、国内通算5勝のレフティ・羽川豊(63)が活躍した1982年「マスターズ」を振り返ります。

オーガスタで輝いた「ジャパニーズ・ミラクル・レフティ」

日本のツアーで左打ちの名手といえば羽川豊だ。1980年(昭和56年)春にプロ入りし、翌81年秋の「日本オープン」(岐阜・日本ラインGC)で中嶋常幸を1打差でかわしプロ初優勝を飾った。同年「ゴルフ日本シリーズ」でも、青木功をプレーオフのバーディで下して2勝目。年が明けるとマスターズ委員会から招待状が届き、82年「マスターズ」で15位の好成績を収めた。初出場で次年度の出場権を獲得した日本人は、69年に13位の河野高明以来の快挙。24歳での出場は、78年に23歳で出場した中嶋に次ぐ2番目の若さだった。

当時、左打ち選手のメジャーにおける活躍は、1963年「全英オープン」を制したボブ・チャールズ(ニュージーランド)がよく知られていた。近年は03年にマイク・ウィア(カナダ)が、翌04年にフィル・ミケルソン(米国)が「マスターズ」で初優勝し、その後はミケルソンが06、10年と勝ち続け珍しいことではなくなった。しかし羽川の時代、米ツアーでも左打ちは無名のアメリカ人選手がいたものの、「マスターズ」に出場できるレベルではなかった。そんな背景もあって、米南部のオーガスタナショナルでは、日本の24歳のルーキーを「奇跡の日本人左打ちプレーヤー」(ジャパニーズ・ミラクル・レフティ)と称し、ひときわ高い喝采であたたかく迎えたのである。

忘れもしない、決勝進出がかかる大会2日目の取材中。オーガスタで最も狭い7番パー4でこんなことがあった。羽川のショットは左の林に入り、ボールは打ち上げのグリーンに向かって、木の右側に張り付くように止まっていた。フェアウェイに出すか、アンプレヤブルもある状況。がっくり肩を落としていると、後ろから肩を叩く者がいる。振り向くと、ヒゲのおじさんがにっこりと笑って「ラッキー!」とVサインでほほ笑んでいた。“木のカゲで打てない大ピンチというのに、なんてことを”とムッとしたが、おじさんは左スイングの素振りをしながら、ニコニコと喜んでいる。そうだ、羽川は左打ちだった。羽川なら木は邪魔にならない! おじさんの真意がわかって、抱き合って喜んだものだ。このホール、羽川は何事もなかったようにパーで上がった。

この年の「マスターズ」は、悪天候にたたられた。初日にただ一人「69」で単独首位のジャック・ニクラス(米国)が、2日目は「77」で急降下。羽川もあの“ラッキー”がなければ予選落ちもあったかもしれない。羽川は「75」「74」の通算5オーバーで予選を通過すると、決勝ラウンドを「71」「72」にまとめ、ニクラスと同じ通算4オーバーの15位タイ。優勝は通算4アンダーのクレイグ・スタドラー(米国)。日本ツアー賞金王として出場の青木功は予選を通れなかった。

1980年代の日本ツアーは羽川に加え、日大からプロ入りで2歳年上の倉本昌弘、同期の湯原信光がおり、大卒の学士プロは“若手三羽烏”と注目の的だった。81年の賞金ランキングを見ると、2位の倉本が4勝、5位の湯原と8位の羽川が2勝ずつとし、3人で8勝を挙げる存在感。そんな中、翌年「マスターズ」には「日本オープン」を制した羽川が初めての切符をゲットし、世界に羽ばたいた。歴史は思わぬドラマを演出するが、カギは左打ち。世界は珍しいものを欲していた、と見ているが、どうだろう。(武藤一彦)

現在は国内シニアツアーで活躍中の羽川豊