国内男子ツアー

ツアー初期の「最少パット」を巡る混乱/残したいゴルフ記録

2020/10/13 13:45
ツアー初期に尾崎健夫のプレーが招いた混乱とは? ※写真は1985年「ゴルフ日本シリーズ」(武藤一彦氏提供)

国内男子ゴルフのツアー制度が始まった1973年より前の記録は、公式にほとんど残されていません。本連載では、ゴルフジャーナリストの武藤一彦氏が取材メモや文献により男子ツアーの前史をたどり、後世に残したい記録として紹介。今回は、平均パット数が公式記録として残る(1985年~)以前に起きた、最少パット記録を巡る“混乱”を振り返ります。

なにが問題? 最少「19パット」を巡り紛糾

国内男子ツアーの日本タイトル大会における18ホール最少パット記録(タイ)は、1978年の「日本プロ選手権」(小樽CC/北海道)で尾崎健夫がマークした19パットである。プロ3年目の“ジェット”こと尾崎3兄弟の次男・健夫は、第1日に6バーディ、2ボギー「68」でラウンド。これは当時のツアー全体の最少記録を塗り替え、プロ野球のドラフトを蹴ってゴルフ界に身を投じた話題のホープの快挙となった。

この『19パット』は公式インタビューの席上で初めて明らかになり、マスコミは「ツアー記録だ」「日本最少パット数だ」と大騒ぎ。しかし、話が進むと、どうやらアプローチをパターで寄せたものが大半らしいことが判明し、紛糾した。

平均パット数を含む部門別スタッツが公式記録として扱われたのは1985年からで、賞金ランキングと平均ストロークしか記録がなかった時代。当時は、パット数への認識も人それぞれだった。アプローチとはウェッジで打つなどしたものを指すのであって、ましてやパターで打ったものをアプローチとは言わない(つまり1パットとして認めない)など、報道陣、選手、役員も交えて意見が飛び交ったのだ。健夫の最少パット記録を“ハイ、そうですか”と認めるわけにはいかない風潮があった。

「面白いように決まった」パター作戦

北海道で初めてのプロ日本一を決める大会は、オールベントのアメリカンスタイルとしても注目を集めた。『全面洋芝のアメリカ仕様コースで日本一争い。いよいよ日本にもベント芝仕様の世界レベルの時代到来』というわけだ。

18ホールのグリーン周りは趣向が凝らされ、グリーン手前には芝がグリーンや花道より長めの“ベロ”と呼ぶエリアをしつらえた。健夫は言った。「グリーンは高速のベントだから手前からパターの寄せに徹した。花道もベロからも、徹底してパターで転がし上げる作戦が面白いように決まった。18ホール中、17ホールがワンパット。ロングで2オンした1ホールだけ2パットだった」。

“ドライバー イズ ショー、パット イズ マネー”と言われるが、飛ばし屋がやってのけた日本では見慣れないプレースタイル。意見、異見入り乱れたが、『グリーン内のパットをワンパットとする』という競技委員会の決定で、明るいニュースとして公認された。

さて健夫の記録だが、1995年の「フィリップモリス選手権」の最終日に、藤木三郎が18パットとして更新。さらに99年の「ブリヂストンオープン」第2日に、台湾の葉彰廷が18パットで並び、現在も2人がツアー記録を保持している。しかし、繰り返しになるが、尾崎が記録した19パットは、今も日本タイトル大会の18ホール最少パットとして燦然と残るのである。(武藤一彦)