幸運も後押し? 19打差の記録的優勝/残したいゴルフ記録
国内男子ゴルフのツアー制度が始まった1973年より前の記録は、公式にほとんど残されていません。本連載では、ゴルフジャーナリストの武藤一彦氏が取材メモや文献により男子ツアーの前史をたどり、後世に残したい記録として紹介します。
3強不在のなか…村木章がホームコースで快進撃
日本プロゴルフの“最大差”優勝記録が19打差と聞くと「それ、まちがいじゃないの?」と思われるかもしれないが、1930(昭和5)年の「日本プロ選手権」で実際に起きた話だ。
第5回を迎えた大会は15人のプロが出場。10月18、19日の両日、兵庫県の宝塚カンツリー倶楽部(現・宝塚ゴルフ倶楽部)で1日36ホール、計72ホールのストロークプレーで争われた。ホームコースの村木章は「74」、「79」、「76」、「75」の「304」ストロークを記録。2位の越道政吉と陳清水(台湾)に19打差とし、歴史に残る大差優勝の快挙を達成した。
大会は、前年優勝の宮本留吉(茨木CC)、同2位の安田幸吉(東京GC)が日本ゴルフ協会(JGA)の要請により、来日していた米国人アマチュアとの親善試合に出場のため不在。さらに、前々回優勝の浅見緑蔵(程ヶ谷CC)は兵役中。当時の“3強”が欠場となり、混戦が予想されていた。
村木は地元の利をいかんなく発揮。第1ラウンドで2位に6打差とすると、午後の第2ラウンドもベストスコアで8打差をつけて初日を終えた。最終日も午前、午後ともに絶好調。4日間すべてでベストスコアをそろえる、圧倒的な強さで逃げ切った。
一週間後に再び19打差Vの珍事も
ライバルの欠場という運と、ホームコースの利にも助けられたとはいえ、プレー内容は他を圧倒するものだった。当時のPGAツアーブックには「ドライバーと切れ味の良いアイアンショットが好調で終始ステディなゴルフを展開。完勝だった」との記録が残されている。
村木は1908(明治41)年1月25日、日本ゴルフ発祥の地、六甲を仰ぐ兵庫・青木(おうぎ)で生まれた。日本のプロ第1号、大先輩の福井覚治と同郷である。プロとなった福井が阪神ゴルフ練習場(大阪)を立ち上げ、村木の父親が管理人を務めたのが縁で、17歳の村木は、福井に勧められゴルフの道へ。福井が宝塚CCの最初の3ホールを設計するなど本格的なチャピオンコース作りに取り掛かると、村木もコースの造成を手伝い、コース開場とともに19歳で宝塚の専属プロとなった。私生活では、福井覚治の長女・敏子と結婚。4児をもうけている。
村木は「日本プロ」で、初出場の第2回大会(1927年)から5位、9位、8位と活躍。ホームコースで満を持して迎えた4回目の出場で、記録的な優勝を成し遂げた。3強不在のラッキーが強調されるが、「日本オープン」でもトップ10入りするなど下地はあった。その後は19打差の自信を、1931年「関西オープン」、32年「日本オープン」でともに2位に入る好成績につなげ、トッププロの座を固めた。宝塚では、ツアー14勝、日本プロゴルフ界で7番目のグランドスラマー(国内メジャー全制覇)である島田幸作を育てた。
さて、実は19打差優勝という快挙は、一週間後の「日本オープン」(茨木CC)で再び繰り返されることになる。同じくホームコースで迎えた宮本が「71」、「72」、「72」、「72」の通算1アンダー「287」。日本プロゴルフ界で史上初となる通算アンダーパーで、2位に19打差の記録に並んだ。わずか一週間後に大記録が繰り返されたことに驚かされ、世界的な快挙をよくぞ、と感慨に震えるのである。
なお、男子ゴルフでツアー制がスタートした1973年以降の最多差優勝は、尾崎将司が94年「ダイワインターナショナル」(埼玉・鳩山CC)で記録した15打差。当時48歳、通算18アンダーで制した。(武藤一彦)