「なにもない存在感」Grand Canyon Village, AZ
見慣れた町並みの、通い慣れた道を通って、いつもの駅へ。人々はゆっくり行動範囲を元に戻し始めているけれど、世界がコロナ以前に戻ることはない。“ニューノーマル”という言葉が示すように、社会は新たな常識を生み出そうと模索している。未知への一歩を踏み出すとき、思い出すのは今年2月のグランドキャニオンでの体験だ。
(これは取材で世界を旅するゴルフ記者の道中記である)
アリゾナ州フェニックスから北に車で3時間半。グランドキャニオンに到着したのは日没少し前だった。周知の通りグランドキャニオンは大きな峡谷で、その南側の縁をサウスリム、北側の縁をノースリムといい、今回はサウスリムの国立公園内にあるロッジに宿泊した。この時期、ノースリムはまだ雪でクローズされていた。
レストランで夕食を済ませ、数時間の仮眠を取って夜12時に目を覚ました。今回のささやかな目的の1つは、綺麗な星空写真を撮ることだった。だけど、撮影機材を持って外に出ても、空は真っ暗で星1つ見えなかった。しかも、ダウンジャケットを着ていても、極度の冷気が肌を突き刺してくる。フェニックスからはなだらかな上り坂が続いていて、いつのまにか標高2200mの高地にいることにまったく気づいていなかった。もしかしたら、違う場所からは天の川が見えたかもしれないし、少し待てば空模様も変わったのかもしれない。だけど、あまりに装備が貧弱で、深夜の撮影は断念せざるを得なかった。
それでも、日の出を撮ろうという意欲はかろうじて残っていた。再びベッドに戻って朝5時のアラームで起きると、大峡谷を見下ろせる近くのビューポイントへと車を走らせた。まだ地上に太陽の光は届いていない。駐車場に車を停め、木立の間を歩いていくと、突如目の前にぽっかりと巨大な暗黒空間が現れた。底はなにも見通せなかったが、そこにはとてつもなく巨大な大地の裂け目が横たわっているはずだ。山ならイメージはつかみやすいが、峡谷は反対に大地の窪みだ。ここから最下部を流れるコロラド川までは約1450mの落差がある。まるで地球が負った深い傷。ブラックホールに飲み込まれそうな恐怖に思わず後ずさりした。
空が明るくなってきて落ち着いたが、撮影はままならなかった。場所を決め、三脚をセットして数カットを撮る。その作業を数回繰り返しただけで、指が凍えてちぎれそうなほど痛くなり、耐えられずにカメラを地面に放り出した。手袋をしていないのが悪いのだが、しばらくポケットに両手を入れて温めないと凍傷になりそうだった。こんなに過酷な環境だとは思ってもいなかった…。
すごすごと部屋に戻ったが、グランドキャニオンに弾き返された感は否めなかった。手も足も出せずに終わった無力感で心が重かった。宿をチェックアウトして、改めてビジターセンターへ行ってみた。その内部の壁には、かつて当地を聖地と崇めていたネイティブアメリカンのこんな言葉が綴られていた。――「人はそれぞれのグランドキャニオンを持ち帰る」
自分が持ち帰ることになったのは、準備の大切さを説く偉大な大自然の姿だった。なにかを達成したいなら、それなりの準備が必要だ。グランドキャニオンを去る前に、数時間だけ谷底に降りていくトレッキングに挑戦した。ビジターセンターのスタッフの助言に従って、靴には売店で購入した鉄製の滑り止めを装着し、手袋も入手した。おかげで、序盤のつるつる滑るアイスバーンもスムーズに通過できた。そのとき谷底から吹き上げてきた冷たい風は、グランドキャニオンの優しい愛撫のように心地よかった。(編集部・今岡涼太)