マスターズ解説者・中嶋常幸の表現力はどう磨かれたのか/ゴルフ昔ばなし
パトリック・リードがメジャー初優勝を遂げた2週前の「マスターズ」。TBS系列で放送されたテレビ中継で今年も解説を務めたのが中嶋常幸プロでした。少年時代からゴルフの英才教育を受け、かつてサイボーグと呼ばれた中嶋選手は日米ツアーで活躍し、いまでは味のある表現力を持つコメンテーターでもあります。ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏の連載対談は今回、中嶋選手の“言葉磨き”について迫ります。
■ 鼻っ柱の強かったプロ転向直後
―中嶋選手は1975年12月にプロ転向し、1年目の1976年に初優勝。1977年には「日本プロ選手権」を制しました。アマチュア時代から数々のタイトルを獲得し、逸材として注目を集めました。
三田村 プロになってから間もなくは、非常に鼻っ柱の強い青年だった。「関東プロ選手権」という試合の1976年大会で、村上隆が優勝した時、中嶋は4打及ばなかった。当時、私は「この4打差はいつ頃、埋められるのか?」という質問をした。彼はまだプロになってから間もなかったが、「まあ、1年か、1年半かな」という感じで答えたんだ。あのインタビューは忘れられない。非常に負けん気が強かった。数年経ってから、「試合が終わった直後で“ファイトモード”。今だったら、ああいう答えはしませんでした」と言っていたけどね。
宮本 トミー(中嶋の愛称)は「マスターズ」で、1978年に13番(パー5)で11オン2パット、「13打」という大たたきのワースト記録を作った(今年、セルヒオ・ガルシアが15番ホールで同じく13打を記録)。
三田村 あの頃もね、やっぱり気持ちが強くて「1日4アンダーで優勝できる」、「とりあえず400ydを飛ばすことを目指す」と本当に威勢が良かった。でも数年後、日本で1982年に1度目の賞金王になった。前年まで4年連続でその座にいた青木功を引きずり下ろしてね。そう実績を重ねていくうちに、同じオーガスタで「ヤンチャな少年が、年を重ねて帰ってきました。成長を見てください」なんてことを言った。1986年にジャック・ニクラスらと優勝争いを演じたころには本当に成熟した選手になっていたんだ。
■ 「マスターズは国立劇場。全米オープンは…」
―青木功選手、尾崎将司選手に負けず劣らず、中嶋選手が話す言葉はいまや多くの若手選手にも影響を与えています。
三田村 中嶋くんは実に表現力が豊かな人。「マスターズは国立劇場、全米オープンは国立競技場」と、絶妙な言い回しをしたことがある。
宮本 彼はメディアでもキャッチーな言葉を使った。1986年のゴールデンイヤーも、そういう言葉が端々に出てきた。
三田村 “国立劇場”に例えたマスターズは毎年同じコースで、要求されたプレーがいかにできるかどうか。「演じる人間がいて、観客に演技を見せる、自分の世界に彼らを引き込めるかということが大事だ」という。一方、“国立競技場”の全米オープンでは「極限状態でタイムを競う、コースを倒す、ライバルたちを倒す」という表現がぴったり。メンタル意識が違うそうなんだ。
三田村 マスターズの「球筋論」というのを聞いたときは、選手のショットが通るエリアを「大きな的(まと)」に例えてくれた。一枚の的があったとして、左の上を通っていくのが高いフェード、右下を通っていくのが低いドロー。真ん中は中弾道のストレートボール。オーガスタナショナルGCでは、的の“限りなくギリギリの端っこ”を通すボールが必要だと。ずっと右上(高いドローボール)を要求してきて、最後の18番ホールで体に染みついているドローの動きを取り去って、「左上(高いフェードボール)を抜いてきなさい」と言われるのがとにかく難しい、と。
宮本 風の強いリンクスコースで行われる「全英オープン」では「雲の中にピンをイメージしている」と言うんだ。全英のコースは木々が少なく、視界が開けているところが多い。ターゲットを絞りづらいコースだからと。そういうちょっとした言葉が面白く、メディアを虜にした選手でもあったと思う。
■ マスターズの解説者を続けるための努力
―今では長年務めている「マスターズ」でのテレビ解説もおなじみになりました。中嶋選手は人の心をつかむフレーズをどのようにして学んだのでしょうか。
宮本 トミーは1977年、プロ入りから間もない時期に律子夫人と結婚した。当時のプロゴルファーたちの中でも早い方だったと思う。
三田村 彼にとっては結婚生活で新しい世界を見出せたことも大きかったんじゃないだろうか。少年時代はとにかくゴルフ漬けの毎日を過ごしたが、家族ができたことで違う社会に身を置いた。その中で、彼の中には「AO(青木・尾崎)に立ち向かう」というゴルフでの目標はもとより、教養も身につけたいという欲も人並み以上にあったんだ。
宮本 米ツアーを転戦していた時も、英会話を学ぶことを決して拒まなかった。上位に入った試合で、スピーチを要請され、通訳を入れずに英語で話そうとしたこともあった。メーカーのスタッフに英文でメモを作ってもらい、発音も教えてもらって、頑張って披露した。コース外においても、自分にないものを補充しようという努力は彼の本質だと思う。
三田村 中嶋は1999年に初めて「マスターズ」で解説を務めた。でも、コメントを入れるタイミングなんかがつかめず、いつ話せばいいかも分からない。もう自分にはオファーはこない、と思って落ち込んだ。でも彼はその後、落語を聞いて話の「間」なんかを学んだ。サイボーグなんかじゃない。そういう人間性の持ち主なんだ。
中嶋選手は日本ツアーで通算48勝。1982年、1983年、1985年、1986年と4度賞金王に輝きました。一方で米ツアーに進出し、世界のトップを目指した日本ゴルフ界の先駆者でもあります。当時、彼の海外転戦にキャディとともに付き添ったのが宮本カメラマンでした。次回は中嶋選手のアメリカ生活の様子を明かします。