中嶋常幸はゴルフ版“巨人の星”から生まれた
日本の男子ゴルフツアーは今週の「東建ホームメイトカップ」で、国内での戦いの幕を開けます。ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家の宮本卓氏による対談連載「ゴルフ昔ばなし」は、今回から中嶋常幸プロにスポットライトを当てます。メジャー初戦「マスターズ」では、今年もTBSのテレビ解説を務めたレジェンドのひとり。青木功、尾崎将司とともに一時代を築いた63歳が歩んできた道を、独自の視点で解説します。
■ ゴルフエリート街道まっしぐらの少年時代
―1954年10月20日、群馬県で生まれた中嶋プロ(本名・中島常幸)は10歳でゴルフを始めました。樹徳高(同県桐生市)を中退し、1973年に「日本アマチュア選手権」を当時最年少の18歳で制覇。若きころからスーパーエリートでした。
三田村 1970年前後に出てきた杉本英世、安田春雄、河野高明という“和製ビッグ3”時代まではゴルフ場のキャディからプロゴルファーになる選手が多かった。青木功もそうだね。ジャンボ尾崎は元プロ野球選手という異色の存在だったが、中嶋は小さいころからゴルファーとして育ち、1972年に「全日本パブリックアマ」、73年に「日本アマ」で勝った。いわゆるジュニアゴルファー、ゴルフ英才教育のはしりだった。
三田村 トップアマチュアの実力があった父の巌さんがものすごく厳しかった。別のスポーツで言えば、当時は珍しくない光景だったかもしれないが、ミスをすれば平気で頭をたたくような厳しさがあったそうだ。まさに“純粋培養”で育ったようなジュニア時代。本当に「ゴルフ以外のことは知らない」というところだった。ゴルフをしているか、マンガを読むか…。パチンコに行くようになったのも、ほかの人に比べれば遅かったそうだよ。
宮本 栃木県足利市に東松苑ゴルフ倶楽部というコースがある。巌さんが作ったコースで、トミー(中嶋の愛称)はそこで、きょうだいとともに腕を磨いたが、とにかくお父さんが怖かったそうだ。「口ごたえなんてもってのほか。すべて言いなりだった」と。
■ “人工の雨”で練習!?
三田村 ウソみたいな話だけど“人工・雨降らし機”なるものを使って練習したそうだ。ショット練習のときの“鳥かご”があるでしょう。そのネットの上にホースを回してシャワーで水を撒く。お父さんはそれを作って、こどもたちに雨の中のプレーを想定してボールを打たせたんだ。
宮本 あのころ、僕らは『巨人の星』(1966年から週刊少年マガジンで連載された野球漫画/原作:梶原一騎、作画:川崎のぼる)で父・星一徹と息子・飛雄馬の関係性を見ていた。漫画の中には「大リーグ養成ギブス」があったけれど、まさにそういう教えの“ゴルフ版”だった。だから、当時のニックネームのひとつが「サイボーグ」。でも、それを何の疑いもなくやってきた親子のように見られていたんだ。
三田村 中嶋が世に出てからは、子どもをプロゴルファーにしたい親にとって、彼らが目標になった。あの美しいスイングも親子で作り上げたものだったんだ。当時のゴルフ雑誌で「週刊ジュニアゴルフ」という連載を組んだこともある。中嶋くんが“編集長役”を務めてくれて。今でいえば、石川遼がジュニアの質問に誌面を通じて答えていくような感じだね。
■ ジュニアゴルファーが学ぶべきこと
宮本 しかし、父から厳しすぎる教えを受けたからこそ、「自分で考える」ことの重要性をトミーが認識したのは、プロになってだいぶ時間が経ってからだった。
三田村 日本の男子ゴルフは“職人的な存在”だった昔の選手に代わり、青木とジャンボが出てくるようになって、迫力やスポーツ的な要素が加わった。そこに若い中嶋が出てきたことで、さらに世代間の争いが織りなされて魅力的になった。ただ、ゴルフという競技はキャリアが長い。中嶋は“純粋培養”を経て、社会性、人間性を持つアスリートになるまでにはプロになってから数年かかった。ゴルファーもほかの人間と関わることによって、“良い菌”が入って成熟していく。中嶋父子は「英才教育」の良い意味でも、悪い意味でもパイオニアだった。現代のジュニアゴルファーも社会性に乏しいと、ボールを打つ技術はズバ抜けていても、人間力という部分で秀でることはない。それが結果的に長いキャリアに悪影響を及ぼす。中嶋常幸という選手はそこから脱却し、歳を重ねるごとに人間性も身につけてすばらしいゴルファーになったモデルケースだと思う。
中嶋選手は1975年に鳴り物入りでプロ入りし、翌76年の「ゴルフダイジェスト・トーナメント」で初勝利をマーク。77年には「日本プロ選手権」も制して一気にトッププロの仲間入りを果たしました。一方では英才教育を経て、社会性を身につけようとする必死の姿勢もあったそうです。次回に続きます。