2020年は日本のプロゴルファー誕生から100年/ゴルフ昔ばなし
ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏の対談連載「ゴルフ昔ばなし」は、兵庫・廣野ゴルフ倶楽部にあるJGAゴルフミュージアムからお届けしています。館内に展示されている歴史ある品々を眺めながら、日本ゴルフの創成期を振り返ってきました。今回は当時、競技ゴルフ、そしてプロの世界に足を踏み入れたレジェンドたちを紹介します。
日本で最初のプロゴルファーはレッスンもショップも
―1903年(明治36年)に日本初のゴルフ場、神戸ゴルフ倶楽部が本格オープンしてから、1907年には現在の「日本アマチュア選手権」の原型になった、横浜のニッポン・レースクラブ・ゴルフィング・アソシエーションとの対抗戦が始まりました。当初は英国をはじめとした外国人の争いがメーンでしたが、その後に日本人の名選手も誕生します。
三田村 六甲山につくられた神戸GCにはひとつ問題があった。冬になると厳しい寒さと雪の影響でクローズにしなくてはいけない。年中ゴルフができるよう、英国出身の商人、ウィリアム・ロビンソンが山のふもと、海に近いエリアに6ホールの「横屋ゴルフアソシエーション(GA)」を1904年に開場した。神戸ゴルフ倶楽部をつくったアーサー・グルームをはじめ、他のメンバーもよくプレーしたそうだ。
宮本 そこから日本で最初のプロゴルファーが誕生したわけですね。1892年(明治25年)に生まれた福井覚治(ふくい・かくじ)さん。写真をいま見ても、カッコいい。
三田村 横屋GAの脇にあった福井さんの生家は、なんとゴルフ場のクラブハウスになった。まだ10代だった彼はロビンソンのキャディを務めたり、ゴルフクラブを直したりするうちにゴルフを覚えた。ゴルフショップや日本初の室内レッスンスタジオをオープンするなど、いまの日本のゴルフにまつわる事業をスタートさせた人とも言える。横屋GAはその後、「鳴尾ゴルフアソシエーション」となり、閉鎖後の1920年に鳴尾ゴルフ倶楽部、舞子カンツリー倶楽部(現在の垂水ゴルフ倶楽部)がオープン。福井さんはこの舞子CCでキャディマスター、そしてプロゴルファーとして採用された。2020年は日本第1号のプロゴルファー誕生からちょうど100年に当たる。
宮本 福井さんはその後、神戸GCでキャディだった宮本留吉さんほか多くのゴルファーの指導者にもなった。宮本さんは1926年に第1回の「日本プロゴルフ選手権」を優勝した人でもある。
三田村 当時は大阪毎日新聞社が主催した「関西プロ/全日本ゴルフ・プロフェッショナル」で、出場したのは6人しかいなかったんだ。
米国の大学ゴルフ部でキャプテンを務めた日本人
―現在も続く「日本プロゴルフ選手権」の初開催は1926年。翌1927年には「日本オープン」が初めて行われました。
宮本 初代の優勝者は赤星六郎(あかほし・ろくろう)さん。大会でただひとりのアマチュア優勝を成し遂げた選手だ(第1回大会の会場は程ヶ谷カントリー倶楽部。出場は17人、うちプロは5人)。
三田村 赤星さんは実業家の家に生まれ、19歳で渡米した。ニュージャージー州にあるプリンストン大に進んでゴルフを覚え、在学時代はチームのキャプテンも務めたんだ。パインハーストでのスプリングトーナメントでは見事優勝。プリンストン大では、のちに近衛文隆さんというアマチュアもキャプテンとして活躍した。
「日本オープン」の消えた優勝トロフィ
宮本 これは“幻のトロフィ”と言われているもので、かつて「日本オープン」優勝者が持つべきもののレプリカですね。
三田村 もともとは大谷光明さん(日本ゴルフ協会第2代会長)が奈良の正倉院にあった香炉をモデルにして作らせたもの。1941年に優勝した延徳春(延原徳春)が朝鮮に持ち帰った後、戦争に突入して紛失してしまった。「戦争中は金属が軍に奪われてしまうため、土に埋めた」というのが公式見解なんだけど…。大会は1950年に再開するが、現在のトロフィはこの戦後に新しく作られたものなんだ。
宮本 このデザインは世界中のメジャートロフィ、オープントロフィの中でも珍しく、日本らしく、東洋的なデザインでもある。優勝トロフィの紛失と言えば、海外ではメジャー「全米プロゴルフ選手権」で1924年から4連覇したウォルター・ヘーゲンの話が有名(ヘーゲンはディフェンディングチャンピオンとして臨んだ1925年に「どうせまたオレが優勝するからトロフィを持って来なかった」と返還をごまかし、連続勝利が途切れた28年に失くしたことを告白した。2年後に倉庫から見つかったという)。いずれにしても、昔の日本オープンのトロフィはカッコいいと思うけどな。