三田村昌鳳が語る日本オープン(1)
「日本オープンのタイトルは、獲りたいさ。獲りたくて、獲りたくてしょうがない。何度も逃しているんだけど……。でも、それがあったから、いまの自分があるのかも知れない」
青木功が、そう呟いたのは1978年の日本オープン終了直後のことだった。青木は、1970年大会で橘田光弘に1打差で敗れて2位タイになって以来、ずっと日本オープンのタイトルを獲れないでいた。その代表的な大会が、1973年だ。
関西の茨木カンツリー倶楽部西コース。最終日、雨の中の最終ホール。500ヤード、パー5。その第2打。6番アイアンのショットがフックして左側にある池の渕に飛び込み、痛恨のミスで敗れた。さらに77、78年も惜しくもスコアを伸ばせずに敗れている。
その77、78年の日本オープンを制覇したのは、セベ・バレステロスだった。
彼は、その前年1976年の全英オープンで初めて世界デビューをし、ジョニー・ミラーに次ぐ2位タイとなり「世界で戦いたい」と決意した。
77年の日本オープンにやってくるまで、スペインの家を旅立って11週間も世界数カ国でトーナメントに出場していた。20歳だった。
第一印象は、周囲を跳ね飛ばすようなオーラだった。コースに出ると、それがもっと大きく輝いて、パッション(熱情)という言葉がぴったりだった。
優勝争いは、セベと村上隆だった。セベの1打リードで迎えた最終ホール。ピン左手前1メートル強。これが入ればプレーオフ。けれども村上は、その距離を外した。
「ラストホールのムラカミのラインは、一見すると右に切れそうだった。でも、本当は左に切れるライン。だから彼が構えたときに、私は安心して見ることができた。むしろ17番で彼が、パーで切り抜けることのほうが恐ろしかった」
とコメントするセベのポテンシャルのほうが、もっと恐ろしかった記憶がある。
セベは、この年5勝を飾り通算14勝目を日本オープンで達成したのだった。
村上が1打差の2位。そして青木は、2打差の3位となった。
この年(1977年)は、日本オープンが、初めて公認球としてラージボールの使用を義務付けた大会だった。USGAとR&Aにあらかじめテストを依頼し認定を受けたボール以外の使用禁止と定めた大会でもあった。これがきっかけで、日本のラージボール使用となったのである。