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石川遼が直面する「批判」と「中傷」/ヤフー&Twitterのキーパーソンに問う

2020/12/30 12:05

石川遼はヤフコメ、ツイートとどう向き合う/ネットコミュニケーションの功罪 (中編)

石川遼がヤフー、Twitterのキーパーソンとネットでの誹謗中傷について議論した

新型コロナウイルスに世界が揺れた2020年。一人ひとりの生命にかかわる危機を前に、多くの人がインターネット上で活発に議論を交わしました。ネットは有益なコミュニケーションの場となる一方で、最近は一部のユーザーによる誹謗中傷や炎上といった負の側面も話題に上がります。特に著名人はその対象になることも多く、顔の見えない匿名の人たちとの交流からトラブルも発生しています。

男子ゴルフの石川遼選手は2007年に15歳でプロの大会で優勝して以来、日本のゴルフ界の話題をリードしてきました。07年はiPhoneの初代モデルが発売された年。この十数年間のネットメディアの目覚ましい進化の渦中に、いちユーザーとしてだけでなく話題の主としても身を置いてきました。デジタルの世界を通じて浴びる称賛の声、はたまた批判の声。いま、アスリートたちはアナログ時代の選手たちが感じていたのとは違う喜びや苦悩も味わっています。今回、石川選手はYahoo!ニュース、Twitter Japanのキーパーソンとリモートで対談を行い、アスリートとしてネットを通じたコミュニケーションにどう向き合うべきか考えました。

全3回の中編は、インターネットのコミュニケーションツールが生んだ問題点、度を越えた批判や誹謗中傷について議論します。Yahoo!ニュースが展開するユーザー向けコメント欄「Yahoo!ニュース コメント」(通称ヤフコメ)、Twitterでの「炎上」について、石川選手がときに批判にさらされる立場として考えました。(進行・構成=桂川洋一)

<オンライン鼎談(ていだん)者>
石川遼/プロゴルファー。杉並学院高1年だった2007年、初めて出場したプロツアーで優勝。翌08年に16歳でプロ転向し、09年に日本ツアー賞金王。13年から5年間、米ツアーでプレー。19年までの2年間にわたり日本ツアーの選手会会長を務めた。
小林貴樹/Yahoo! JAPAN メディア統括本部 メディア企画デザイン1本部長。スポーツナビを運営するワイズ・スポーツ代表取締役を経て、2012年にYahoo! JAPAN入社。Yahoo!ニュースなどを管轄するスタートページユニットの責任者を務める。
笹本裕/Twitter Japan代表取締役。1964年タイ・バンコク生まれ。ニューヨーク大学経営学修士。獨協大卒業後リクルート入社。MTVジャパン代表取締役社長兼CEO、マイクロソフト執行役オンラインサービス事業部事業部長などを経て2014年から現職。

対談はオンラインで実施した

前編のお話から、インターネットを介した情報がいまや欠くことのできない世の中になったこと、プラットフォームやSNSが人の興味関心を広げるトライをしていることが分かりました。一方で今回のメインテーマでもある、スポーツ選手や著名人がネットを介した情報で心を痛める現状もあります。特に多くの一般ユーザーが意見を書き込むヤフコメやSNSでの誹謗中傷は、情報流通の主体が新聞やテレビといったマスメディアに限られていた時代には少なかった問題と言えます。石川選手はどう感じていますか?

石川 スポーツの現場にいる選手にはメディアを通して、応援も、個人がマイナスに捉えてしまうようなユーザーの声も届いていると思います。ネットが発展して本当に多くの人の声が共有される時代になった。それは良いことだと思うけれど、中には見たくない意見を見てしまう、あるいは逆に自分自身が誹謗中傷する側に向かうケースもある。将来「有名になりたい」という人はいま、そこに向き合う必要が出てきた。実際にいまも、誹謗中傷で悩んでいる人はたくさんいるはず。今回の記事自体も、いろんな人が読む。自分のためにも議論できたらと思います。

―そもそも、Yahoo!ニュースの記事下につく「ヤフコメ」のサービスはなぜあるのでしょうか?

Yahoo! JAPAN 小林 前編で「多様性って大事だよね」という話をしました。そもそも「なぜYahoo!ニュースがあるのか」という点で言うと、世の中を良くしたいという基本理念があります。情報として伝わったからには良いことを考えてほしい。ときには情報に触れて反省することもあるかもしれないし、行動に移す人もいるかもしれない。ただし、その際に多くの視点に触れて、考えの選択肢を積み重ねることで、世の中が良くなっていくのではないかと考えています。よく読まれる記事には良い視点がシャープに入っているものですが、100%のユーザーにマッチする記事でも、意見には多様性があっていいと思っています。

SNSを通じてトラブルに巻き込まれた人も(情報通信白書より)

小林 とはいえ、プロゴルファーの記事には現実的に他に比べて厳しいコメントがついているなと僕自身は思っています。プロスポーツでファンが受け取るのは「感情」しかない。そこが難しい。何かモノを買うのと同じ数千円を払って、会場で観て、応援して、感動して帰っていく。でも自分の期待とは違うことも起きる。そうなったとき、プロゴルフの場合は意見の矛先がチームでなく、個人に向かう。ただしファンの方へ、という点で言うと「叱咤激励と誹謗中傷は違うんです」と。書き方で、受け手には叱咤激励にも誹謗中傷にも見えることを理解してほしい。受け手(コメントを寄せられる側)はヤフコメもひとつの意見だが、それがすべてではないと思っていただくといいと思います。ヤフコメもTwitterもTikTokも、あるいは友達の意見も、ひとつの見方だと。一定の視点に過剰に反応するのはあまり良いことではないというか。

石川 何につけても悪く言いたい人は一部で、昔からいるんだとも思います。ただ、昔はそれを発信する術がなかった。いまはそういう潜在的な意見が“見える化”された。例えばテレビ局への苦情を1万人が伝えるのに電話が10台しかない時代は、声がなかなか届かなかった。それをネットで発信できるようになった。物事としては、それがマイナスに働いてしまうのは考えられることでしょうね。

―インターネットを介したコミュニケーションは、これまでになかった利便性と社会的意義を生んだ一方で、悪い副産物もあるように感じられます。何気ない一言が個人を傷つけ、ときに生命すら脅かす場合もあります。プラットフォーム側としてはどう考えますか?

小林 誹謗中傷をどう流通させないかという点で言うと、誹謗中傷や人の気持ちを傷つける言葉は、AIと人によるパトロールを行い、24時間監視しています。残念ながら削除に至るコメントもあるし、誹謗中傷ばかりが目立つアカウントを停止することもある。「表現の自由は無制限ではない」とユーザーに明示しています。何でも書いていいというのは決して良い世の中ではない、と。

―それは一般ユーザーだけでなくGDOを含め、ニュース発信元のメディア、パブリッシャー側にも言えそうです。

Twitter 笹本 コミュニケーションツールは、人の喜怒哀楽が表れやすい場所でもあります。ポジティブな側面も多い反面、負の感情も出やすくなってしまう。悪意を持っている人が世の中にいるというのはひとつの実態で、Twitterも技術を活用して良い方向に生かしたい。この2、3年は特にAIの部分に最も投資してきました。しかし残念なことに、AIでは思いつかなかったような(誹謗中傷につながる)やり方が生まれることもある。そこは人に頼り、監視体制を強化していく。Twitterは公共の会話に寄与するというのが基本理念ですが、誹謗中傷か、そうでないかの“線引き”は本当に難しい。ひとつのツイートが辛辣でも、実はツイートの前後を見ると友達同士の他愛もないやり取りというケースもあります。技術と人の目、あるいは皆さまから寄せられる報告から、より健全な会話を生み出していく場を引き続き作っていかないといけません。

いまや多くの時間をネットに割いている(情報通信白書より)

笹本 ヤフーさん同様、悪意のあるツイートを削除したり、アカウントの凍結もしたりする。アカウントは無限に作れるようであって、実はAIの技術で同じ人と判断して止めることもあります。攻撃的な投稿に困っている人はTwitterに報告できます。当事者ではない第三者からの報告も可能です。報告を受けた場合、日本語をきちんと理解する専任のスタッフによって、文脈、関係性などを確認し、ルール違反であると判定した場合には、状況に合わせてアクションを取ります。このチームは24時間365日対応しています。公共の会話の場なので、様々な会話が生まれて難しい面がありますが、プラットフォーマーとして責任を持って向き合わなければいけない。

石川 人による監視やAI技術、ポリシーといったところから、最前線で起こっている問題に日々取り組まれていることは、失礼ながら知りませんでした。

笹本 ただ、これはプラットフォームだけで完ぺきに対策できることではありません。社会の教育も必要だと思います。子どもの頃、「自分が嫌がることを人に言ってはいけない」と教わりながら育ったことを考えると、道徳教育はいまの時代だからこそ重要なのかなと思ったりもします。

笹本 近年は誹謗中傷がスポットライトを浴びますが、研究者によると、実際に炎上に参加しているTwitter利用者は全体の0.5%という説もあります(国際大学 グローバル・コミュニケーション・センター 山口真一准教授)。また当社が無作為に抽出したツイート1000件を目視で確認したところ、ルール違反にあたる投稿は1件でした。ですから、ごく少ない人たちの悪意または行動が、皆さんの心を痛めているという現実とどう向き合うかということと、それだけではない本来の良さをどう生かすか。そのバランスを取るとることが非常に重要であると思っています。

石川 ネットを介して声を受け取る側としても、ひとりのユーザーとしても、そうした数字を最低限知っておくと視野が広がりそうです。ただ、「発信のうちの0.5%」という割合は1000の意見のうちの5つで、そう言われたら本当に少ないなと思うんですが、受け取り側によってはそう考えられない場合もあります。“脳にロックがかかって”いて、周りの全員がそう思っていると思考してしまうことがある。その気持ちはすごく、僕も胸が痛くなるくらい分かる。自分自身にも当然、そう考えてしまう時期がこれまでにありました

ネットでの批判。石川遼にも受け止めきれない時期があった

石川 メディアに多く出る側の人間も、周りの意見をどう捉えるのか、「入ってきた情報を分けていくこと」が、スキルのひとつとして求められると思います。よく「必要なのは鈍感力」だとか言われますが、僕は違うと思う。実際にいまも苦しんでいる人がいるので、一方的に「強くならないとダメ」なんて言えないただ時間をかけながら、受け止めたものを自分で整理整頓して、分ける力が求められるのではと思います。そのために広い視野を持って、いろんな考えを受け入れる準備をしておく。批判も称賛もフラットに受け止められるように。褒められた意見だけを自分に蓄積していくことは多様性を欠いて、道が逸れていくリスクがあるようにも思います。

―そもそも、プロアスリートへの批判はネット時代に顕在化する前からあったはずです。それが、いまでは賞賛よりも批判が多く目に付くような印象も受けます。

石川 多くの人が素晴らしいと思っていたとしても、そこにアグリー(賛同)する人はいちいち言わないような気がしませんか? 「良い」と思っている人の声は、なかなか届かないのかな。批判を受ける側としてはそう解釈するのも必要だったりするのかなって。

小林 人ってそういうところがあるのではと正直、思っていまして…。「ええぇ」、「なんでぇ?」と不満を口にするほうが簡単なのかなと。「素晴らしい。なぜならこうだから」って言うのって難しい。「こうだから優勝した」よりも、「優勝できないのはこうだから」と言うほうが簡単。日常会話でも不満の方がすぐ誰かに言いたくなるのでは?

石川 ほんとですね(笑)。「いいね!」って具体的に言うのって難しい

誰かを褒めるのってむずかしい?

小林 ゴルフの試合観戦はサッカースタジアムなんかよりも、遠い場所にわざわざ行く。駐車場に車を入れる時間を待って、やっと良い場所で観られた…と思ったら、プロがミスショットをした。「なんだよ!」という気持ちはすぐネット上に書きやすい。共感しやすい人の特性とは関係があるかもしれません。

―確かにプロゴルフの観戦は天候の条件にも左右され、フィールドも大きいので他のスポーツよりもハードルが高いように思います。たくさんの選手を一度に観ることができないし…

石川 強い言葉を使うと、強くなった感じがしませんか? 同意への発信って、頭を使って物事を理解、再確認しないと難しい。不満を優しく発信するのも難しい。強い批判は、ある意味で自分がひと回り大きくなったような感覚に陥るというか…。気持ち良くなると、機会が増えたり、エスカレートしたりするのかな。匿名ではより、そう思えるのかなと思います。

小林 ヤフコメは確かに比率として批判めいたものもありますが、建設的なことをコメントする方も間違いなくいる。つい悪いことを書く人の中には、選手に向けたものではなく、同じ記事を読んでいる人に向けてメッセージを送っているケースもある。野球を観に行った帰りに、一緒に応援していた人と「あそこでヒットが出ていたらなあ」という残念な気持ちを共有するのと同じ感覚なのでは、とも思っています。

石川 どんなに有名な人でも“いちユーザー”としては誰しもまったく同じで、自分があしたそうなるかも、誰かを傷つける側になるかも、ということを自覚しないといけない。誰かと真逆の意見を持っていても、面と向かってだとケンカにならないけど、メディアやSNSを通すと炎上に向かうことがある。本当に一人ひとりの多様性を認めることがファーストステップかなと思います。

石川 僕は小学校の卒業文集に「世界一のプロゴルファーになりたい。マスターズで勝ちたい」と目標を記しました。最後に「世界一好かれる選手になりたい」と書いたんですけど、いまとなっては…それはムリだな!と思うんですよ(笑)。70億人に愛されるのはムリ。でも、人のことを愛するのは自分次第かなって。僕は臆病で、平和主義というと聞こえがいいけど、とにかく心に波が立つこと、自分がケンカするのも、人のケンカを見るのもイヤ。だから、あの卒業文集の本当の意味は「自分がみんなを愛したい」という方が正しかったと、いまでは解釈しています。