感涙の宮里藍「プロとして、兄として尊敬します」
渾身のガッツポーズは、背中越しに見ていた。最終18番、宮里優作のグリーン右サイドからのアプローチがカップに沈むと、その飛球線の後方で宮里藍は大きな瞳を見開いて、叫んだ。両手で顔を覆い、人目もはばからずむせび泣いた。
2013年の最終戦「日本シリーズJTカップ」で掴んだ、プロ転向11年目で掴んだ宮里家の二男の初勝利。「あれだけの重圧がかかる中で、ボギーでも、ダボでもいいと思っていたけれど…カッコよかった」。数々のドラマを生んできた東京よみうりCCでのチップインパーフィニッシュに、妹も痺れるほかなかった。
父・優コーチの教えを受け、沖縄で伸びやかに育った宮里3兄妹。中でもアマチュア時代に突出した実績を誇っていたのが優作だった。日本ジュニア2勝(中学男子、15~17歳の部)、日本アマ制覇。プロツアーでも2度2位に入る活躍を見せ、日本学生3連覇を成し遂げた2002年末にプロ転向。鳴り物入りで新しい世界に飛び込んだ。
ところがそのルーキーイヤーとなった03年の秋。藍が「ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープン」でアマチュア優勝を遂げ、ブームの到来とともに、一躍時の人となった。世間が認識する兄弟の関係性は「優作の妹」から、いつしか「藍ちゃんのお兄ちゃん」に変わっていった。
さらに翌04年12月には長男・聖志が「アジア・ジャパン沖縄オープン」でツアー初勝利。「すごいショットを打つけれど、弱い」。「宮里兄妹の中で、勝ったことがない人」。近年、それが二男に浴びせられた評価だった。
だが、周囲の目が変わろうとも兄妹が長い時間をかけて培ってきた結束力は変わらなかった。「嫁いでから本当にびっくりしたのが、兄妹思いなところでした。『テレビ用でしょ』なんて言われたりもするんですけど、本当に…」と言うのは優作の妻、紗千恵夫人である。
2人の兄は公然で「藍ちゃんは僕の師匠。爪の垢を煎じて飲んでいる」と誇らしげに言い、米国で戦う妹に日々メールを送り、国際電話をかける。たとえ自分たちのラウンドを終えた直後でも、妹が海の向こうで優勝争いをしているとなれば「藍ちゃん、今日はどうでした?」と報道陣に尋ねる。そんな光景は既に男子ツアー会場での日常の一コマになっていた。
3年前、優作は妹を支えるメンタルコーチであるピア・ニールソン、リン・マリオットに師事するようになった。藍は「私も結果が出るまでに3年かかった。優作は1年かもしれないし、5年かかるかもしれない」と助言した。ラウンド中の風向きなどを“色”で頭の中でイメージ化し、感情をコントロール。リーダーボードを無視したり、スコアを付けるのをキャディに任せたりと、目の前の1打に集中する術を模索してきた。
変化が見て取れるようになったのが、やはり3年後の今年だった。紗千恵夫人は言う。
「いろんなことに動じなくなったというか…私は勝てなくても毎年シード選手としてプレーしてくれることだけでありがたかった。本人は周りから何百回、何千回と『優勝』と言われているはず。だから私は『優勝』という言葉は絶対に出さないように、2人の間で『優勝』を話すことは無かったんです。でも、今年の(10月の)東海クラシックで『絶対優勝してくるから!』って初めて言って…変わってきたのかなって」。
藍は「兄妹だけれど、それぞれにペースがある。だから結果に一喜一憂はしてこなかった」と言う。プロ転向から11年かけて手にした1勝。でもそれが、紛れもなく兄のペースだった。「(優作は)兄妹の中で一番練習をする。10年くらい、腐らずに努力してきた。努力は絶対に裏切らない。けれどタイミングは残念ながら自分では選べないんです。でも、結果が出ないのに努力を積み重ねるのは本当に難しいこと。プロとしてすごく尊敬する。自分と向き合う勇気を持っていて、人としても、兄としても尊敬します」。
3兄妹は今後も、互いに刺激と、癒しの時間を与え続けながら、進化を遂げていくはずだ。
優勝インタビューで優作は言った。「いつも『藍ちゃんのお兄さん』と呼ばれていました。でも今日は自分の名前を呼んでいただいた。それが力になりました」。兄としてのプライドをのぞかせたのは、その一瞬だけだった。(東京都稲城市/桂川洋一)