激動の10代と、同志としての関係性
激動の10代と、同志としての関係性
全4回でお送りするGDOの2016年末のスペシャル対談。
Round3はふたりの歴史をさらに遡ります。同学年という縁もあり、ふたりの関係性は“戦友”と表現されますが、互いのことを一体どう思ってきたのか。それぞれの10代を整理しながら振り返り、正直な思いを吐露していくと、期せずして2人の間に見えてきたものがありました。
―ふたりの最初の出会いはいつでしたか?
松山:中学1年生のときですね。全国中学校ゴルフ選手権。まあ、遼は覚えてないんですけど!(笑)
石川:中3のときの同じ大会で一緒に回ったのは覚えてるんだけど…中1のは覚えてない!(笑)
松山:おれ、記憶力が結構良いからね。でもまあ、一緒に回った他の選手のことは覚えてない。遼だけ。「同じ中1に、こんなに良いスイングをして、こんなに飛ぶ選手がいるんだ…」と思って。中学生で同い年の選手に、1Wで40yd置いていかれることって、ありえないんですよ。帰ってから、おれ、親父に言ったわけ。「すごいヤツがいた!」って。そうしたら「そんなもん、負けてるお前が悪い」って言われた。
石川:中3のときに回った松山英樹という名前は覚えてる。でも雰囲気と名前だけで、ゴルフの記憶が…
松山:そりゃそうだよ。おれ、優勝争いしても良かった(実力があった)んだけど、あの試合は早めに崩れて、何もできなかったんだ。ちなみに、あのとき遼は長尺パターを使ってたんだよ。
石川:そうそう。グリップをお腹辺りにつけて、アンカリングして打ってたんだ。
―石川選手は杉並学院高1年生の5月「マンシングウェアオープンKSBカップ」で、史上最年少の15歳で優勝しました。
石川:高校に入学して1カ月。そのとき、アイツだって分かった?
松山:分かった、分かった。「1カ月前に一緒に回ったやん」って思った。その前の日までの成績は新聞では知ってたの。確か20位くらいだったでしょう?で、友達に勝ったって聞いて「んなわけねーだろ」って思った。「一日でそんなに逆転できるわけねえ」って。だから、マジかよ、ヤベェみたいな。すげえな…というのと、悔しいなと思った。(同大会は悪天候のため最終日に決勝36ホールを行い、石川は23位から69、66で回り逆転優勝した)
石川:でもね…当時は、その後の「日本アマチュア選手権」でも簡単に予選は落ちるし、どっちが自分の実力なのか分かんない感じだったんだ。高校1年生なら日本アマに出ただけで、まあまあだよな…とも思えるんだけど、プロの試合で優勝した人が、日本アマで予選落ちして良いのかな…って悩んでもいた。
石川:でもひとつ、マンシングに勝ったときは「バンカーショットが好きで良かった」って思ったんだ。
松山:ハハハ、なるほどね。(同大会最終日の17番パー3、石川はグリーン脇のバンカーからチップインバーディを決め、勝利を手繰り寄せた)
石川:あの17番のバンカーショットは、すごく好きなシチュエーションだったんだ。左足下がりで、ピンまで下りのライン。「こういうとこから、スピンかけて寄せたらスゲエな!」って、いつも練習してたシーンだった。実を言うと、いまだったら、あのバンカーに絶対入れないんだ。あれって、(第1打で)ピンを25ydくらいオーバーしてるから。
松山:え?オーバーなの?あれ。左手前のバンカーだと思ってた。いま初めて知った。
石川:210ydくらいのティショットを3番アイアンで打って左奥に。バンカーで、すごくワクワクしたのは覚えてる。でも、あれ、もし入ってなかったら、たぶんグリーンを出てるから。
松山:そうだよ、確かに強いよ(笑)
石川:スパーンって良い音がして、「よっしゃ!」と思ってボール見たら、「あ、強いわ!」って。「やっぱ、ダメか!」って(カップインの前に)思ってた。それにしても優勝はないと思っていたからね。ホールアウトしてから2時間近く、後ろの組をロッカーで待ってたんだ。
松山:プレーオフの準備はしてなかったんだ。
石川:そう、あれ、プレーオフになったら絶対、勝ってないから。なんも準備してないもん。なんかやりきっちゃって。何が何だか分かんない、プロの試合に出たのが初めてだったから。
松山:すげーな。初めての試合で勝っちゃったんだから。
石川:ホントに“社会科見学”だった。ツアーのバス(各メーカーのプロサービスカー)に行くと、ボールが支給されて。それが超うれしくて。
―ハニカミ王子は時代の寵児になりました
石川:あの頃の記憶って、ほとんどないんですよ。それほど激動だった気がします。なんか…うーん…不思議。何かが噛み合ってなかったら、全然違う人生になっていた。でも、人前に出るのはもともと抵抗がないタイプだから(笑)。しかも自分が大好きなゴルフで、人に見られるのは幸せなことだって。だから「なんで、こんなに自分が騒がれるんだろう?」って。それまでは、日本でゴルフって、それほど注目されていると思っていなかった。僕はやっぱりタイガー・ウッズがとにかくカッコ良くて、真似してやっていたような感じだから…まず日本で活躍して、アメリカに行って頑張りたいとイメージしていた。
松山:やっぱり中学のときに一緒に回った選手だから、印象はずっとあった。違う人間、勝てないのかな…と思っていた。(高知・明徳義塾)高校生のときも、地元のカシオワールドオープンのコース(Kochi黒潮CC)で何回も回っていたから。そのコースで、この(石川の)スコアでは回れないよ…って。いつか勝ちたい、でもすごいなって。そういう風にしか思わなかった。ジュニアの頃は、目の前にいても話しかけられなかった。オーラがすごい…みたいな…(石川は)自分の中では完全に有名人だった。
―松山選手は東北福祉大1年時の秋、2010年のアジアアマチュア選手権で優勝し、翌年春のマスターズでアジア出身選手として初めてローアマチュアを獲得する快挙を達成しました。
松山:アジアアマのとき、僕は日本人の中で6番目(の優先順位で選ばれた)だったらしいんですよ。ナショナルチームでの扱いも下の方だったし、順番も9番目か、10番目だと思っていた。「出られるんなら、出ようかな。ラッキー!」くらいの感じで。その後すぐに、「日本オープン」があったから「(アジアアマが行われたコース)霞ヶ関カンツリー倶楽部で練習していこう」って気分だった。
石川:それで勝ったわけだ。
松山:アジアアマの直前に「パナソニックオープン」で、遼はホールインワンしたでしょ?あの試合、おれも出ていて、ボロボロで予選落ちした(73、77の82位タイで決勝ラウンドに進めず)。「ああ、もうゴルフしたくないなあ」って、1週間ロクに練習もせずに「まあ、調整がてら行くか…」って。それでコースに入ったら、メチャクチャ、フィーリングが良くて。試合に入ったら「これ、行けるんちゃうか?」って。あれ?3日目が終わってトップだよ、勝っちゃうの?…勝っちゃったよ…え?マスターズ?出られちゃうの?って感じ。
石川:そのニュースでおれも英樹の名前を思い出した。同級生というのは、なんとなく覚えていたんだけど、アジアで強い選手がいる中で、日本人が勝ったことがうれしかった。単純にスゲエじゃん!って。英樹もメディアを通じて、石川遼という名前を思い出したと思うけど、おれもそうだった。
松山:その後の「日本オープン」で一緒に回った。遼はあのとき、キム・キョンテと賞金王争いをしていて、ピリピリしてんなと思ってた(笑)。
石川:おれ、あのときめっちゃピリピリしてた!(笑)キョンテとの最終日最終組で惨敗した。最後は英樹にも負けた。(石川は8位、松山は3位)。あのとき、英樹ってこんなに背が高くて、良い体してたっけ…?って思ったよ。
―2011年の三井住友VISA太平洋マスターズで松山選手はアマチュアとして石川選手以来の優勝を飾りました。
石川:御殿場でね。一緒に表彰式に出たんだ。
松山:遼は(最終日に)ホールインワンをしてね。あれさ、次の年も表彰式に一緒に出たじゃん。2012年は遼が優勝して、おれはローアマ。あれ、気まずいからね。マジでイヤやったもん。ディフェンディングチャンピオンが、ローアマで表彰式にいるんだよ。おれ、全然笑えなかったもん。
石川:でも、やっぱり「つるやオープン」(2013年)で、英樹がプロ転向して2試合目で勝ったとき「マジですごい奴が来た」って思った。自分はプロになってから、すぐに勝つことはできなかった。(初勝利のマイナビABC選手権まで)10カ月かかった。その結果を出せるのは、アマチュアでの優勝が、まったくマグレじゃないことの証明でもある。それが、おれがアマチュアで勝ったときとの違い。
松山:おれは(アマチュアで勝ってからプロになるまで)猶予があったからね。勝っても、1年以上アマチュアだったから。
石川:でも大学生のレベルが必ずしも低いとは言わないけれど、信念を貫いてやってきているからじゃない? 自分はこれをやらなきゃダメなんだって。英樹は信念がものすごく強いんだと思う。
松山:「つるやオープン」で勝ったのは、もちろんうれしかった。でも実は、当時は「賞金王になれば、マスターズにも行けるし、アメリカにも行ける」って考えだったんだよ。「(ツアーの各大会で)勝てなくてもいいんでしょ?」みたいな。「全試合で2位になったら、賞金王になれるでしょ」って。そんな考えに走っていた。(プロ1年目で)アメリカのシードも取れてうまくいったけど、本当はもう1年、日本ツアーにいる予定だったんだ。日本で頑張って、次の年にアメリカに行こうと描いていた。そしたら…最初の年にうまく行き過ぎた感じなんだ。
―連絡先を交換したのは松山選手がアメリカに渡った2013年の後半頃ですか?
松山:いや、だいぶ後だよね…。
石川:おれと英樹がアメリカに来なくて、ふたりとも日本にいたら、こんなに仲良くないと思うんですよ。
松山:それはあるね(笑)。去年あたりじゃないかな…去年どこかで、アメリカでご飯を食べたときだと思う。去年の11月(日本ツアー)「ダンロップフェニックス」のときには、遼に連絡をしてたな…。夕食のときに「なにしてんの?」って無理やり誘ったんだ。
石川:寝てたのに、焼肉屋に誘われて(笑)。そうだね、あのちょっと前くらいだ。英樹は福祉大出身だから、先輩、後輩がいっぱいいる。でもアメリカには日本人の数自体が少ないから…。厳しい世界で、周りの選手のすごさも、コースの厳しさも理解できるから、英樹と話していると飽きない。だから、連絡を取り合えるようになったのは、おれにとってはすごく良かった。英樹は本当にすごいレベルまで行ったけれど、おれが頑張れば、英樹とまたこうやって話したり、一緒の試合に出られるはずなんだ。
―松山選手がツアーに登場した当時は、石川選手とたびたび比較されました。
松山:当時は「遼は遼、おれはおれでしょ」って思っていた。しかも遼はアメリカで、おれは日本でやっていた。「同じ舞台じゃないでしょう、比べんなよ」ってすごい思っていた。比べるなら、アメリカで同じ舞台に立ったときに、と思っていた。でも、いま思えば、それってすごく光栄なことだし、ゴルフ界を盛り上げるためには大事なことだったんだなと思います。
石川:サッカーや野球って“みんなが監督”になるじゃないですか。「なんであそこで代打送ったんだ?」とか…。そういうのをファン同士で話したりする、それが人気のスポーツだと思う。ゴルフファンにはそういう人が野球やサッカーに比べて少ないのでは?人気はファンから作るもの。そのためには、選手同士で競争するのが一番良い。松山の方が上だ、石川の方が上だという会話が生まれることはゴルフ界にとって良いこと。だからおれは、本当に頑張らないといけないなって。
松山:いま話していて分かった通り、おれたちはお互いのことを知る機会が少なかった。一緒に練習ラウンドを回っても、そこまで話すことは多くない。自宅をフロリダに買ったけど、近くに住んでいる遼は(故障で)帰ってこないし(笑)。不仲説?嫌いだったら、一緒に回んないよ。ただ、当時は一緒に回るとメディアの格好のネタになるのが嫌だった。あの頃は、おれは話すことが嫌いだったから。話すネタを増やしたくない、と思ってた。自分を通して、ワガママを押し通したから…周りはそう思ったのかもね。
石川:おれが英樹の周りにいると、カメラマンもたくさん来る。おれもね、英樹がメディアの人に(石川との関係性について)聞かれるのを、面倒くさがっているのは分かってた。でもおれは一緒に練習したかったし、回りたかったから、そこで自分を通した(笑)。「騒がしくなるけど、ゴメン!」みたいな!
松山:ホントなら日本でも一緒に練習ラウンドしたいけど、そう気にしてしまうとなかなかね…。自分としては、遼のことはライバルというか、なんというか表現しにくいんだけど、個人的にはすごく意識をする存在。同じ同級生でもまた違うんです。
次回Final Roundのテーマは、いまふたりがいるアメリカPGAツアーと、若くして巣立った日本ツアーについて。愛すべき母国ツアーだからこそ、提言したいことがあります。世界最高峰のツアーの魅力と、日本ゴルフのこれから。2020年の東京オリンピックへの思いも明かして、インタビューは最終回を迎えます。
聞き手・構成/桂川洋一
撮影/田辺安啓(JJ)
1992/02/25 愛媛県生まれ
4歳でゴルフを始め、中学2年で愛媛から高知・明徳義塾中に転入。明徳義塾高を経て東北福祉大に進学する。2011年の「マスターズ」でローアマチュアに輝き、プロ転向1年目の13年に日本ツアー賞金王戴冠。14年の「ザ・メモリアルトーナメント」で日本人史上4人目の米ツアー初勝利を飾った。日本ツアー8勝、米ツアー3勝。
1991/09/17 埼玉県生まれ
東京・杉並学院高入学直後の2007年5月、日本ツアー「マンシングウェアオープンKSBカップ」を制し、15歳245日の史上最年少優勝記録を樹立。“ハニカミ王子”旋風は社会現象になった。現役高校生プロとして09年に日本ツアー最年少となる18歳で賞金王を戴冠。13年に主戦場を米ツアーに移した。日本ツアー14勝。