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後世に残したいゴルフ記録

日本人初の海外メジャー出場は1932年/残したいゴルフ記録

2020/08/29 14:30

国内男子ゴルフのツアー制度が始まった1973年より前の記録は、公式にほとんど残されていません。本連載では、ゴルフジャーナリストの武藤一彦氏が取材メモや文献により男子ツアーの前史をたどり、後世に残したい記録として紹介。今回は海外に目を向けて、記録が少ない日本人の4大メジャー挑戦のはじまりを振り返ります。

初出場は1932年「全英」 宮本留吉の挑戦

日本人で最初に海外メジャーに挑戦したのは宮本留吉だ。1931年暮れから32年にかけ、安田幸吉、浅見緑蔵の3人が初めて米本土遠征。そのあと宮本がひとり英国に渡り、32年「全英オープン(6月8-10日/プリンスズGC)」に出場した。その後は再びアメリカに戻り、同年「全米オープン(6月23-25日/フレッシュメドウCC)」にも出場。残念ながら2戦とも予選落ちしたが、結果はともかく、この遠征から日本人による海外メジャー挑戦の歴史がはじまった。

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その後、日本とアメリカの間で「日米対抗戦をやろう」という機運が高まる。1934年秋、米PGAツアーから日本ゴルフ連盟(日本ゴルフ協会の前身)に向けて「来春、6人のプロを派遣してほしい」との要請が、来日したメジャーリーグ(MLB)ホームラン王のベーブ・ルースによって届けられた。

1935年4月から7月末まで4カ月間をかけ、日本のプロ6人が全米各地を周遊し、42試合の日米対抗戦を実施する。転戦の合間には6人を「全米オープン」に出場させるという、願ってもない武者修行の場も用意されていた。

日本はすぐに応じた。代表選手に安田幸吉キャプテン(東京GC)以下、宮本留吉(茨木)、浅見緑蔵(程ヶ谷)、戸田藤一郎(廣野)、陳清水(武蔵野)、中村兼吉(藤沢CC)の6人が選ばれ、団長には日本ゴルフ連盟・加沼豊事務局長を選出した。1935年4月9日、一行の乗った貨客船『日枝丸』は、万歳に送られて横浜港を出発した。

1935年「全米オープン」で中村兼吉が初の決勝へ

対抗戦はバンクーバーでスタートし、70日間をかけて米中部から南部、そして東部へ。トレーラーバスと鉄道を利用する巡業の旅。試合が終わると立食パーティに参加し、次の都市へ移動するという過密スケジュールだった。42都市で42戦が行われ、日本の25勝13敗4引き分けという好成績。だが、地元プロとの親善マッチは日本が圧勝したが、日米トップがガチンコで争う団体戦はアメリカが圧倒的に強かった。

そのさなかの1935年6月、「全米オープン」は参加162人(アマ23人)により、全米屈指の難コース、オークモントCC(6981yd/パー72)で行われた。

第1日、中村と宮本の「82」が日本勢のベスト。全員グリーンの速さに驚いたが、2日目は中村が「79」と日本勢で唯一の70台をマークし、「161」で予選を通過した。決勝ラウンドに進出したのは中村ただ一人。そして、これが日本人初の海外メジャー予選通過となった。

最終日36ホールの決勝ラウンドに入り、中村は午前の第3ラウンドで「78」と気を吐いたが、最終ラウンドは「86」。3日間で37オーバー「325」ストロークの58位。”大した成績ではない”などと言ってはいけない大健闘だった。

大会は、優勝者のサム・パークス(米)が11オーバーという、史上まれにみる難しさ。この年、第2回「マスターズ」でプレーオフを制して優勝したジーン・サラゼンも18オーバーの6位。安田キャプテンは「70台を2回も出した58位の中村兼吉は大変な健闘であった」と、自分のことのように胸を張った。

中村兼吉の国内キャリア

中村兼吉(かねきち)は神奈川県藤沢の出身。1932年創設の藤沢CC所属。マッチプレーで争う公式戦「関東プロ」では33年から2連勝し、関東では浅見、安田に次ぐ実績を誇った。さらに同年の「日本オープン」で優勝。当時の大会史上最長だった難コースの霞ヶ関CC東コース(6700yd/パー74)でコースレコードの2アンダーを記録し、「日本プロ」2連勝のラリー・モンテス(フィリピン)に9打差、3位の宮本、安田に10打差で圧勝した。

公式な生年は不詳。元日本ゴルフ協会事務局長の小笠原勇八氏のコラム『人間グリーン』(夕刊フジ掲載)によると「兼さんは昭和49(1970)年2月28日、64歳でなくなった」とあり、「全米オープン」時は、24歳か25歳だったと推測できる。なお、戦前に日本から渡ったプロの海外メジャー予選通過は中村を含め、翌36年大会の陳清水(45位)、36年「マスターズ」の陳(20位)と戸田(29位)の3人、計4回と記録されている。

春の「マスターズ」に始まり、「全米オープン」、「全英オープン」、「全米プロ」の4大メジャーは、プロならそのタイトルを手にするのが夢だ。日本人男子の初優勝も待たれるところだが、過去最高位は2位。1980年の「全米オープン」(バルタスロール)でジャック・ニクラスと4日間を同組で回った青木功と、2017年「全米オープン」で最終日に14位から猛然と追い上げた松山英樹が記録した。(武藤一彦)

※参考文献:安田幸吉ゴルフ回想記「わが旅路のフェアウエイ」/井上勝純著(廣済堂出版)

武藤一彦(むとう・かずひこ)
1939年、東京都生まれ。ゴルフジャーナリスト。64年に報知新聞社に入社。日本ゴルフ協会広報委員会参与、日本プロゴルフ協会理事を経て、現在は日本エイジシュート・チャレンジ協会理事、夏泊ゴルフリンクス理事長を務める。ゴルフ評論家として活躍中。近著に「驚異のエージシューター田中菊雄の世界」(報知新聞社刊)など。

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