2016年 全米オープン

不屈のダッファーの物語 オークモントにもあった黒人差別(中)

2016/06/15 16:00

社会を変えた地元紙「ピッツバーグ・クーリエ」

米国を代表する名門コースが見届けてきたものとは(Fred Vuich/Getty Images)

1910年、弁護士のロバート・L.ヴァンは「ピッツバーグ・クーリエ」というわずか4ページの地元紙を買収すると、それを米国で最も購読される黒人紙にした。ヴァンの新聞が支持された要因のひとつは、ゴルフだった。彼は、アフリカ系アメリカ人が市内のシェンリーパークにあるパブリックコースでプレーする権利が得られるよう、時間を割いてピッツバーグの権威に対する一大キャンペーンを張った。彼はいくつか造った小型ゴルフコースのひとつを市内の黒人居住区に造成し、そこで大会を開催したが、これにはあたかもプロの選手権であるかのような大観衆が押し寄せた(「このコースにはオークモントにある自然のハザードの全てがある」なんていう自慢話も残っている)。

1930年代に入ると、ピッツバーグ・クーリエはその熱の入ったボクシング報道から“ジョー・ルイス新聞”の異名を取ったが、ルイスがゴルフ愛好家だったことから、多くの読者に対し、ゴルフも黒人のためのスポーツとなり得るという考え方を定着させることとなった。

米国が第二次世界大戦に突入すると、ピッツバーグ・クーリエは全米で“ダブル勝利キャンペーン”を展開し、読者を戦争支援と地元での差別撤廃への支援へ駆り立てた。しかし戦後も、ふたつ目の“勝利”は、ゴルフを含めアメリカ全土で制度として実現することはなかった。

ジャズシンガーのビリー・エクスタインはピッツバーグ在住の熱心なゴルファーでもあったが、彼は1940年代に自らの領域を超えて活躍したことで知られている。チャーリー・シフォードやテッド・ローズといった当時トップクラスだった黒人ゴルファーは、大多数のPGAツアーから締め出されていたため、エクスタインは彼らのゴルフレッスンを受け、シフォードを個人的な付添人兼ドライバーとして雇うなどし、彼らの生活が立ち行くよう支援した。

一方、ピッツバーグで楽しみのためにプレーする一般の黒人ゴルファーたちは、地域一帯にあるほぼすべてのパブリックコースで門前払いされた。そんな中、1950年にピッツバーグ一帯に住む6人のゴルファーが、地元の公民権運動活動家だったジェラルドとアロマのフォックス夫妻の家に集まり、彼ら自身のゴルフクラブを組織することを決断したのである。

彼らは自分たちを“ピッツバーグ・ダッファーズ”と称し、同志を増やすことで数の多さに強みを感じるようになった。彼らはまず、クリーブランド、ボルティモア、そしてワシントンの黒人ゴルファーたちとアウェイで試合をするようになった。その後、少しずつ、ピッツバーグ周辺のコースに活動の場を広げるようにした。

最初に彼らを受け入れたカントリークラブは、市の南北両側にあるノースパークとサウスパークの2つのみだった。ダッファーのひとり、カルビン・ウォーマックが電話でティタイムを予約した別のコースへ行くと、そこの支配人はもし彼が2度と来ないのであればグリーンフィーをそっくり返すと申し出たことがあった。そのほかの場所でも、彼らは相当な額の頭金を要求されるか、あるいは胡散臭い警備員たちにつきまとわれた。「彼らは我々が然るべきプレーのペースやディボットの修復の仕方を知らないというような扱いをしたんだ」とロビンソン。「あるいは、我々が大麻かなにかを吸っているのではと思い込んでいたのだろうよ」。

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