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30年の歴史に幕 “坂田塾”はゴルフ界に何を残したのか

2023/12/21 15:30

坂田ジュニアゴルフ塾(通称・坂田塾)が今年4月、その歴史にひっそりと幕を下ろした。プロゴルファー坂田信弘が1993年に熊本で開校し、指導するコーチ陣はボランティア。地域の練習場やゴルフ場と提携し、坂田自身が執筆活動で得た資金も注ぎ込んで、子どもたちからは一切お金を受け取らない画期的なゴルフ塾だった。一時は熊本、札幌、福岡、東海、船橋、神戸と全国6校まで拡大し、古閑美保上田桃子笠りつ子安田祐香らを輩出した。

「ずっと手が震えています――」。スタートホールのティショットを打ち終えた谷山智永(たにやま・ちえ)さんは、こわばった表情のまま言葉をもらした。大学卒業後に司法書士の個人事務所を開設し、中学1年で辞めたゴルフを再開したのは20代後半になった5年前。3度目の挑戦となった今年、兵庫県ゴルフ連盟が主催するアンダーハンディキャップ競技「のじぎくオープン」本戦まで勝ち進み、同組には安田がいた。

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「最初に見たのは予選会です」と兵庫県ゴルフ連盟の佐野陽一副会長は証言する。「パッと見たら“谷山智永”っていう名前があった。同姓同名かなと思って顔を見ると面影があったから『坂田塾の佐野やけど覚えている?』って聞いたんです。そしたら『…あっ』ってしばらく時間があってから気付いたようで『なんとなく覚えています』って」

谷山さんが2歳上の兄と一緒に坂田塾(神戸校)に入塾したのは小学4年の時。20年以上前だが、佐野さんの記憶は鮮明だ。「練習場やコースでラウンドする時も担当していたので、その兄妹のことはよく覚えているんです。当時あまり楽しそうにゴルフしているようには見えなかったけど、真面目にずっと来ていたから印象に残っていたんです」

1998年秋、神戸でゴルフ練習場を経営していた中山広隆さんは阪神・淡路大震災で沈んだ街に“夢”を取り戻したいと、坂田塾開校を志し熊本まで足を運んだ。しかし、初めて対面した坂田はけんもほろろの対応だった。「無理!無理!無理!今、全国46都道府県から話が来てるんや。47番目に来てもそんなの無理やから、帰れー!」

「なんやこの人って。めっちゃ冷たかったんです」と中山さんは苦笑混じりで振り返る。せっかくだからと子どもたちの練習を眺めていると「まだおるんか!」と怒鳴られる。大丈夫という関係者に励まされて夕食についていくと「何しに来たんや!」と突き放される。帰り際に「おい、神戸の」と呼び止められ「無理だからな!」とダメ押しされた。落胆して神戸に戻り、年が明け、忘れもしないという1並びの平成11年(1999年)1月11日。坂田から突然電話が掛かってきた。「神戸に開塾するから準備せい」という第一声に飛び上がらんばかりだった。「その代わりな、無料で貸してもらえる練習場11カ所、ゴルフ場7カ所が集まらなかったら無理だからな」。そう言い残してガチャリと切れた。

「どうしよう…」。それから中山さんは、神戸青年会議所の同期でゴルフ好きだった佐野さんと土城敏彦さんを仲間に誘い、方々に頭を下げて協力してくれる施設を探した。しかし、当時のゴルフは大人たちの世界である。「なんで子どもに打たさなあかん」「ラウンドさせなきゃあかん」とにべもなく断られた。「うれしいのと悲しいのと半々でしたね。ゴルフ界ってこんなに厳しいんかい…って」。期限までに集まったのは練習場9カ所のみで、協力ゴルフ場はまだ見つかっていなかった。

それでも坂田は承諾した。1999年3月、神戸新聞やスポーツ各紙に「坂田ゴルフ塾 神戸に開設へ」のニュースが掲載されると、一次面接には約200人の子どもたちが殺到した。後援会が組織され、神戸財界から多くの支援金が集まった。復興を目指す神戸の街が「一緒に夢を育てよう」という熱意の中で動いていた。

そんな坂田塾に、谷山さんは「父に言われて、面白そうだなって思いました」と軽い気持ちで入塾した。「兄が塾長に気に入られたんです。妹一人だけやったらあれやけど…って、塾長に言われたような記憶があります」。プロになる決意こそなかったが、ゴルフはずっと楽しかった。だが、マラソンが得意だった谷山さんは中学進学時に陸上部に勧誘された。「そこは駅伝に力を入れていて土日にも練習があるんです。みんなで団結を高めていくものだったので一人だけ抜けることはできないと思い、それがきっかけで(坂田塾を)辞めました」

予選会で“谷山智永”の名前を見つけた時、佐野さんは「あのまま辞めてなかったんやって、それがものすごく感動したというか衝撃的だったんです」と打ち明ける。「何のためにジュニアのことをやるかと言ったら、プロにならせるためではないんです。僕はアマチュアゴルファーだから、アマチュアゴルファーとして長い間ゴルフを楽しくやってほしいという気持ちでした。最初は坂田プロが『全員プロにするんや!』ってやっていましたけど、今の子ってプロがあかんかったらすぐ辞めるやないですか。大学卒業までやっていたのに辞めてしまう子もいるし、途中で挫折してしまう子もいるから、寂しくてね。(谷山さんの名前を見つけた時は)うれしかったですよね」

谷山さんがゴルフを再開したのは、仕事の付き合いで誘われたのがきっかけだった。久しぶりにゴルフクラブを握ったが、子どもの頃に覚えた形(かた)は身体に染みついていたという。「春のアマチュア選手権に出た時に、連盟に坂田塾のコーチがいることを知ったんです」と谷山さん。「ホームページを見てみると結構いろいろされている。『ゴルフを楽しいって思ってくれる人が増えるように、いろいろやろうと思っているねん』みたいな話を聞いて『すごいなぁ』『素晴らしいな』って思ったんです」。かつて教わったコーチたちが今もゴルフの普及に努めている。その活動に励まされ、勇気が湧いた。

坂田塾が成功した要因は何だったのか?「坂田さんは“親”って言うんです」と中山さんは振り返る。「どの子どもにも才能はある。その才能を伸ばすも殺すも親次第。だから親の教育をする。お金を一切取らないから言いたいことが言えるんです」。その上で小学生にも「絶対にウソつくなよ」と真剣勝負を挑んでいった。スパルタ式とも揶揄(やゆ)されたが、子どもたちは怖い怖いと言いながら不思議と坂田に寄っていった。「そうしないとゴルフ場の門戸は開かない。大人の世界に子どもたちの世界はない。大人の世界に基準を合わせて子どもを教育するしかないと思ったんでしょう」。厳しさも時代が生んだ必然だった。

神戸校は最後に残った一校だった。かつて事務局長だった中山さんも、コーチだった佐野さんも土城さんも、兵庫県ゴルフ連盟や関西ゴルフ連盟に携わるようになり、近年は坂田塾との関わりはなくなっていた。

一人の男が立ち上げて、圧倒的な成果を残したゴルフ塾。その過程でねたみや嫉妬、反発が起きなかったわけではない。「坂田塾は私塾ですから、それをごり押しするのは難しい。だけど、連盟でジュニア育成をすれば誰にも文句は言われない。坂田イズムは生きています」と中山さんは胸を張った。坂田塾がまいた種は神戸にしっかりと根を張って、今それぞれの花を咲かせている。 (今岡涼太)

今岡涼太(いまおかりょうた) プロフィール

1973年生まれ、射手座、O型。スポーツポータルサイトを運営していたIT会社勤務時代の05年からゴルフ取材を開始。06年6月にGDOへ転職。以来、国内男女、海外ツアーなどを広く取材。アマチュア視点を忘れないよう自身のプレーはほどほどに。目標は最年長エイジシュート。。ツイッター: @rimaoka

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