2018年 マスターズ

50年後の安らぎ '68マスターズの光と影 3

2018/04/04 11:30

このクラブは誰にも見せるな

飛距離のあるティショットこそゴルフ最大の武器だというベン・ホーガン(Bettmann/Getty Images)

1965年まで、私は1Wの酷いフックと格闘していた。その年のコロニアルで、ベン・ホーガンが自身の施設に私を誘い、底面に“3”と刻印されたクラブをくれたのだが、それはロフトの立った“ブラッシー”、すなわち2番ウッドだった。「このクラブは誰にも見せるな」と彼は言った。それは実際すばらしかった。ディープフェースで3度開いて刺さっており、ソールからトップにかけてのロールはわずかだった。出球は低く、強く、真っ直ぐで、スピン量はとても少なかった。どこまでも転がっていった。1967年にバルタスロールで行われた「全米オープン」で、私は17番ホールのティショットを308yd飛ばし、大会最長ドライブを記録した。私のティショットは生まれ変わった。ティショットをぶっ放したあと、私は周囲からは底面の“3”だけが見えるようにクラブを持った。

1968年の「マスターズ」前にそのブラッシーを壊してしまい、またフックの恐れが戻ってきた。私は何でもトライした。しばらくは、重さ9キロの鉄の棒を車のトランクに入れて旅していた。右サイドを抑制しつつ左サイドを強くすることができると思って、それを左手一本で振っていた。この方法はそこそこ役に立ったが、フックの恐怖が消えることはなかった。

その68年のオーガスタでの日曜午後の早い時間、まだ私が最終ラウンドへ向け練習場でウォーミングアップしていると、駐車場が一杯になった。当時は満車になると車は練習場へとあふれてきた。私の練習がちょうど1Wに達しようかというところで警備員がやってきて、「ここまでです。練習場はクローズします」と言い渡した。彼らと議論する余地はない。だから私はコースへ戻る途中、クラブハウス近くにある小さなショートゲームエリアでティアップし、パトロンがいないと分かっている地点に向けて何球か打った。

男らしく、とっとと打っちまえ

15番ティへと歩いて行く私は、優勝争いの真っ只中にいた。私は良いプレーヤーだと承知していたが、超一流ではなかった。11大会で優勝し、「ライダーカップ」でもプレーした。だが、「マスターズ」はまったくの別物だ。その後の40分間で起こることが、自分の人生を変えてしまうことは分かった上でプレーしていた。

15番で私は熱気を感じていた。1Wで会心のショットが出て、2打目は3Iで届く距離しか残っていなかった。綺麗なドローボールでカップまで8フィート(約2.4m)のところにつけて、イーグルパットを沈めた。ベルビルにある私の自宅の壁には、ボビー・ジョーンズから私宛てに送られた手紙が額に入れて飾ってある。手紙には「私はあなたが15番で打った極上の第2打に特に胸を躍らせました。あれは私があのホールで目にした最高のショットでした」という一節がある。ジョーンズは1935年にジーン・サラゼンがあのホールでアルバトロスを達成したのを目撃していたのだから、これはかなりの賛辞だった。

17番はグリーンに乗ったが、カップまではかなりの距離があった。私はファーストパットを大きくショートしたが、これは犬のように縮こまっているときにありがちなことで、その後のパーパットも外し、この大会で唯一の3パットをやらかした。18番ではティショットが右サイドの木の枝をかすって、グリーンまで長い距離が残ってしまった。その週の私のキャディは、“マーブルアイ”として知られたフランク・ストークスだった。彼は私に3Iで打たせようとしたが、私は2Iだと思った。彼は「2Iでは大き過ぎる」と言った。

私は「もし君が間違っているなら、このクラブの行き着く先も知っているだろう」と言葉を返した。ともかく私は2Iで打ったのだが、“マーブルアイ”の助言でいくぶん短めに打った。グリーン奥に乗り、ファーストパットを4フィート(約1.2m)につけた。私は首位に並ぶにはこのパットを決めなければならないと思い、かなりナーバスになったのだが、そんな自分に腹が立った。アドレスをすると、「なにビビってんだこの(XXXX)、男らしく立って、とっととその(XXXX)を打っちまえ」と自分自身に叫んだ。汚い言葉を許して欲しいが、それが実際に言ったことだ。私は2回素振りをして、真ん中から沈めた。

チャンピオンズディナーで、クリフ・ロバーツは常に選手たちに大会をより良くするための提案を求めた。ある年、1959年のチャンピオンであるアート・ウォールが、過去の優勝者のスタート時間にもっと配慮してはどうかと提案した。彼はとても早かったり、とても遅かったりするスタート時間でプレーして、嫌な思いをしたと不満を言った。アートが帰宅すると、家にはクリフから送られてきた手紙が待っていた。そこには、1959年からその年に至るまでのアートのティタイムが逐一記されており、そのすべてがすばらしい時間帯だったことが判明した。この話はアート自身が語ったのだが、彼はそれ以降チャンピオンズディナーでは黙っていることにした。

あのマスターズから50年

2015年の「マスターズ」で談笑するボブ・ゴールビー(左)、ベン・クレンショー(中)、ジェイ・ハース(Ross Kinnaird/Getty Images)

ある年、私は自分のグリーンジャケットを仕立て直そうと、自宅へ持ち帰ったことがあった。少しきつくなってきていたし、オーガスタで仕立て直すのは骨が折れたからだ。朝のフライトから降りた私はジャケットを着ていたが、同じ日の午後にオーガスタ・ナショナルから電話があり、すぐにジャケットを戻せと言われた。彼らがどうやって自分がそれを持っていることに気づいたかは、神のみぞ知っている。

昨年、私の母校であるベルビル高校が校庭に人工芝を敷設した。高校はそれをボブ・ゴールビー・フィールドと名付けた。私はめったに泣かないのだが、落成式で人々にあまりにすばらしい言葉をかけられ、目に涙があふれた。ゴルフで泣いたことは一度もない。「マスターズ」で優勝したとはいえ、これまでの思い出で最も興奮させられるのは、ベルビル高校のクォーターバックとして東セントルイス高校との試合に出場して6-0で勝利したことだ。まだ、その夢を見ることもある。私の考えでは、自分の地元で自分の名前が何かに冠されるということは男として最高の栄誉だ。

あの「マスターズ」から50年が経ち、歴史は私に優しく接してくれるようになった。あまりにも昔のことだから、特に若い人たちは、あの論争について知らない。彼らにとって、私はただのマスターズチャンピオンだ。彼らは「すごいですね。何年に勝ったのですか?その時の話をしてくれませんか?」と聞いてくる。私は日曜にどうやって「66」で回ったのか、車があふれた駐車場、15番でのショットについて書いたボビー・ジョーンズの手紙のことなどを話すのだ。時は私が心安らかであり、より深い誇りと満足を感じることを許容してくれている。(完)

(米国ゴルフダイジェスト誌 2018年4月号掲載)

2018年 マスターズ