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2018年 全英オープン
期間:07/19〜07/22 場所:カーヌスティ(スコットランド)

三田村昌鳳×宮本卓 ゴルフ昔ばなし

珍道中だらけ?日本人の全英オープン挑戦記/ゴルフ昔ばなし

2018/07/03 07:30

7月に入り、男子ゴルフのメジャーは14日(木)に第3戦「全英オープン」(スコットランド・カーヌスティ)を迎えます。ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏の対談連載「ゴルフ昔ばなし」では本戦直前まで、1860年に始まった最古のゴルフトーナメントにフォーカス。初回は今から40年前、日本人選手の“全英挑戦”について回顧します。

■ 日本人選手の“全英先駆者”とは

―例年、全英オープンには多くの日本人選手も多く挑戦します。今年は松山英樹をはじめ、2000年大会以来、最多タイとなる10人が出場権を得ています。ただし、日本勢が多く当地を踏み始めたのはいまから約40年前。ある選手の出場がきっかけだったとか…。

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三田村 僕が初めて全英に行ったのが1976年でした。日本人が初めて全英に出場したのは1932年(宮本留吉)だけれど、それからしばらくはほとんどいなかった。76年に僕は鈴木規夫(ツアー通算16勝)に誘われてね。ピーター・トムソンに「海外でプレーしてみてはどうか」と背中を押された鈴木が「全英の予選会に出るから、三田村さん、一緒に行きませんか」と。それまで、日本から全英に取材に行くことはなかったから、会社にうまいこと言って、なんとか渡英したんだ。

三田村 初めて見た英国のリンクスには驚きばかり。まず予選会のスタートでは、競技委員みたいな人たちが選手に「キャディバッグにちゃんとルールブックを入れているかい?」と聞いている。その頃は家族旅行で来た人や地元のタクシーの運転手さんも出場していた。100をたたく人もいて。米国から来たある選手がひとりでプレーしていた時、すごいラフに入ってみんながボールを探していたら、その辺にいたおじさんが「おれがここからキャディをやってあげるよ」なんて言っている。なんて、のどかなんだ…と思ったね。ティからグリーンが3つ、4つと見えて、鈴木に「あれ、このホールのグリーンはどれ?」なんて聞いたりしたよ(笑)。そんな中、彼は見事に予選会を通過して本戦に出場したんだ。

■ バイク

―鈴木選手は初出場で当時、10位に入る活躍を見せました。

三田村 ちなみに当時、まだ19歳のセベ・バレステロス(スペイン)が2回目の挑戦で2位に入った。鈴木は予選ラウンドでは一時的にトップにもいた。本当に調子も良くてね。でも彼は冷静に言っていたよ。「三田村さん、ここが“滑走路”だから良かったんだ」って。英国はとにかく地面がカチコチだった。だから飛距離が外国人に劣っても戦えた。そう言えば当時、現地の若いカメラマンが鈴木の写真を撮りたいと言ってきた。それも「スズキのバイクを持ってきたから、それと一緒に」って。しかもスズキのレース用のウェアも持ってきていて…。鈴木も「しゃあないなあ」って応じて(笑)。当時まだ20歳前後だったカメラマンが、のちのブライアン・モーガンだった。
宮本 規夫さんはノリがいいんですよね。モーガンは世間に認知された最初のゴルフフォトグラファーといえる人。スコットランド人で、オーガスタナショナルGCの写真撮影をしていたようなカメラマンだったんだよ。すごいアイデアマンだった。

三田村 全英はやっぱり、雰囲気も米国の試合とは違う。コースでアーノルド・パーマージャック・ニクラスもアフタヌーンティを飲んでいたりしていた。ジーン・サラゼンやボビー・ロックも…。彼らがリラックスムードで、いろんな話をしてくれる。今じゃ考えられないよね。鈴木が10位になったことで、そこから現在に至るまで毎年、日本人選手が出場している。最近のように日本ツアーの試合に多く出場枠は設けられていなかったから、予選会に出向く選手が多くなった。翌年の1977年には鈴木と青木功が出場。トム・ワトソンジャック・ニクラスを破ったターンベリーでの試合だね。
宮本 日本で全英が一気に“メジャー”になったのは、1980年大会。ミュアフィールドで青木功さんがベストスコアの「63」をマークした。ミュアフィールドは全英の会場の中でも本当に難しいコース。そこで、当時のメジャー大会の最少ストロークだからね。僕は1989年のロイヤルトゥルーン大会が初めての全英撮影だった。尾崎三兄弟がそろい踏みしたんだけど、あの頃は日本がバブルで、世界から向けられる目も独特だった。地元の新聞で「あのでっかいズボンに、お金をたくさんつめて帰るんだろう…」なんて揶揄されたのを覚えている。

■ タフな全英取材とタクさんの発明

―全英オープンの予選ラウンドは午前6時過ぎに第1組がティオフし、最終組のスタートは午後4時半頃になります。昼の時間が長いゆえに、大会関係者はそんな長時間労働を強いられるわけですが…。設備が整った米国とは違う大変さもあります。

三田村 初めて英国に行ったときは、やっぱり心躍るものがあった。ロンドンから電車でリバプールに向かってコースに行く。その車窓からの景色には学生時代から憧れていたからね。風景がすごく美しい。一方でサンドイッチが非常にマズい。コーラを注文したら、あったかいのが出てきた。アメリカと違って道が飽きないというのはあったけれど、大変なことも多いのが全英でもあるね(笑)。僕が初めて行った70年代はまだ1ポンド700円前後の時代。だから小さなピザが3000円、4000円もして…。すべての物価が高いという印象だった。でも数十年前の選手たちの中には、当時の日本では希少だったカシミアのセーターを“段ボールいくつ分”という感じで買って帰る人もいたんだよ。
宮本 全英のコースのプレスルームは、今みたいにクーラーもなかった。暑くなったら窓を開けるのが基本だった。そして、とにかく会場の周りにホテルがない。AONが出場するようになって、こぞって日本人メディアが海を渡るようになった。宿は広告代理店が、なんとか斡旋してくれたんだけど、それでもコースから車で軽く1時間はかかるようなところばかり。1つの部屋に3人、4人と記者が押し込められるような感じだった。当時、僕には不思議に思っていたことがあったんだ。シャワールームには蛇口が2つあるんだけど、それぞれ、お湯と水が出るようになっている。「この国の人たちはどうやって髪を洗っているんだろう」と…。
三田村 1993年だったかな…宮本くんと一緒にロイヤルセントジョージズ大会(グレッグ・ノーマンが優勝)に取材に行ったとき、一軒家を借りた。同じような状況で、宮本くんが「ミタさん、これを使ってください!」って持ってきたのが、カップうどんの器だった。「これでお湯と水を混ぜるといいですよ」って。素晴らしい発明だったなあ(笑)

日本人選手の全英オープンの過去最高成績は1982年、ロイヤルトルゥーン大会での倉本昌弘選手の4位。今年はどんな戦いを見せてくれるでしょうか。さて、連載は次回、全英をはじめ世界のメジャーシーンで輝いたレジェンドのひとり、故セベ・バレステロス(スペイン)について迫ります。2011年5月、脳腫瘍のため54歳の若さで亡くなったスーパースターは何を残したのでしょうか。

三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。

宮本卓 TAKU MIYAMOTO
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」

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