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三田村昌鳳×宮本卓 ゴルフ昔ばなし

小平智が勝ったPGAツアー そこに広がる世界/ゴルフ昔ばなし

4月の「RBCヘリテージ」で小平智選手が日本人史上5人目のPGAツアー優勝を果たしました。今週の「ザ・プレーヤーズ選手権」(フロリダ州TPCソーグラス)から、すでに5勝(うち世界選手権2勝)をマークしている松山英樹選手とともに本格参戦を開始します。ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏による対談連載「ゴルフ昔ばなし」は今回から、その世界最高峰のゴルフツアーについて語ります。

―小平智選手が初優勝した「RBCヘリテージ」は毎年、メジャー初戦の「マスターズ」翌週に開催されます。場所はサウスカロライナ州のヒルトンヘッドアイランドです。

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宮本 ヒルトンヘッドのハーバータウンGLは大西洋を望む美しいコース。昔、何度も取材に行った。オーガスタでの余韻に浸りながら、車で3時間ほど走って着くんだ。スタートからしばらく林間のホールが続き、残り3ホールで海沿いに出る。ピート・ダイとジャック・ニクラスの初めての合作と言われるコースで、日本人は何度もやられてきた場所のひとつ。青木功さんとも行ったが、難しいというイメージしかない。
三田村 木が両サイドからせり出ているホールが多くて、ショットが本当に難しい。ただ、攻めどころが明快なところがすばらしい。初めて訪れた選手でもティグラウンドに立っただけ、数回ラウンドを重ねただけで、狙うべきところが分かる。だからイマジネーションを一生懸命、駆使するのではなく、明快なポイントが浮き出てくる。とはいえもちろん、そこに打つ技術があってこその優勝には違いない。
宮本 実は小平は…前週の「マスターズ」が終わった直後、「オーガスタでは意外とみんなマネジメントするんですね…。僕はコースをよく知らないから、どんどんドライバーで打っていきましたけど…」と言っていたんだ(笑)。そのくらい、日本人には「ティショットはドライバー」という固定概念が頭にある。でも米国では「全米オープン」のセッティングをはじめ、「ここはドライバーを使ってはいけませんよ」「あのバンカーは絶対に避けなければいけませんよ」といった具合に、ロケーションが選手に必要な攻め方を訴えてくる。小平はヒルトンヘッドで、そのコースの要求に応えたんだ。

―日本ツアーを主戦場としていた小平選手は優勝するまでPGAツアーのメンバーではなく、「RBCヘリテージ」には大会が独自に設けている「世界ランキング50位以内の資格」でスポット参戦。ツアー出場15試合目での快挙でした。

宮本 勢いのある時に勝った、という面ですばらしかったと思う。青木さんは1983年に「ハワイアンオープン」で、ツアー出場61試合目に勝った。樋口久子選手が1977年に「全米女子プロ選手権」で米国初勝利を挙げた時も、60試合前後。30年以上前は外国人選手にとって、そのくらいの試合数の経験が必要と思われていたんだけど…。そこにはやはり情報化の影響がある。パソコンも携帯電話もない時代から、今では様々なことが一足飛びに情報が入るようになった。
三田村 昔のアメリカツアーでは、アメリカ人選手は後輩たちにこう教えたそうだ。「1年目はまず宿を覚えなさい。2年目はコースの周りのレストランを、3年目になってコースを覚えなさい」と。地図を見て、車を運転して、転戦でまず住環境を整えてから試合に集中できる。そして4年目を迎えたくらいになって、ようやくタイトル争いに加わることができるという考え方だったんだね。
宮本 今では選手個々のスタッツも明確に発信されるようになった。フェアウェイキープや試合中のヘッドスピードまで分かったりする。テレビやインターネットで、ほかの選手の攻め方も勉強できる。昔はそういった“経験力”がないと勝てなかったが、松山にしてもルーキーイヤーに勝った。小平は一発でシード権を取ったことで、一気に世界が広がった。勝つか、勝たないかは今後にとってすごく大きな分かれ目なんだ。

―「RBCヘリテージ」は1969年(当時の名称はヘリテージゴルフクラシック)にアーノルド・パーマーが初代王者となり、ジョニー・ミラージャック・ニクラストム・ワトソンニック・ファルド(イングランド)ら伝説的な選手も歴代王者にいます。その試合を制した小平選手は今週の「ザ・プレーヤーズ選手権」からツアーメンバーとしての第一歩を踏み出します。

宮本 僕には「RBCヘリテージ」で忘れられない出来事がある。1988年の大会。ある17歳の少年が白血病で苦しんでいた。余命いくばくもなく、この試合の後に骨髄移植手術をするという。彼はグレッグ・ノーマン(オーストラリア)の大ファンで、財団や大会関係者の計らいで期間中に憧れの人に実際に会うことができたんだ。すると、ノーマンは彼を自分のラウンドに帯同させ、ギャラリーロープの中に入れて観戦させた(カメラマンのアシスタントという名目でツアーにかけ合った)。そして、そのゲームで見事に勝ってしまう…。本当に感動的で、「こんなことがあるんだ…」と思った。小平はそのチャンピオンたちの中に名前を刻んだんだ。
三田村 日本ではそのギャラリーロープの“中と外”の区分というものがとても官僚的に感じる。そういう前例を作ってこなかった(※日本男子ツアーは今年から日時、人数を限定して、ロープ内での観戦ツアーを実施している)。PGAツアーは、ギャラリーと選手との一体感を持たせることを時に優先する。ノーマンのようなドラマにもなりうる。ある意味で、「感動を作ることへの寛容さ」がある。そこはプロスポーツとして大きな違いがあると思う。
宮本 PGAツアーは社会貢献の面でも率先してスポーツ界を引っ張ってきた。ツアー大会ではどの試合も、誰かが地域の病院に出向いたり、団体に寄付をしたりするイベントを作る。チャリティ活動をとにかくアピールすることでツアーは大きくなったが、一方でそれに参加するプロゴルファーの人間性も高まる。スーパースターや一流プレーヤーが人間として大きくなっていくのは、ツアーがそういうカリキュラムを組んでいるからというか。
三田村ニック・プライス(ジンバブエ)が「全英オープン」と「全米プロ」で勝った1994年、彼にインタビューをしたとき、「勝利を積み重ねていくことで何が大きく変わったか?」と聞くと、彼は「チャリティのパーティなんかが一気に増えたんだ」と言った。ツアーで勝ち、メジャーに勝てば、称賛を浴びる半面、社会的な責務を果たさなきゃいけない。セルヒオ・ガルシア(スペイン)も「マスターズ」で優勝してから、1カ月くらいアメリカとスペインを歩き回った。小平くんはそういう世界に足を踏み入れた。今後の姿勢にさらに期待したい。

PGAツアーは1968年、現在のPGA(全米プロゴルフ協会/PGA of America)から独立して現在の形態になりました。現在、世界最高峰といわれるツアーを作り上げたのは、PGA時代から、必ずしも選手の力によるものだけではありませんでした。次回に続きます。

三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。

宮本卓 TAKU MIYAMOTO
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」

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