2018年 日本女子プロ選手権コニカミノルタ杯

ビリから始まった競技人生 樋口久子/ゴルフ昔ばなし

2018/08/30 11:30

男子は海外メジャー4試合が終わり、米ツアーは秋のポストシーズンを迎えました。一方、女子ツアーは9月のメジャー最終戦「エビアン選手権」(フランス・エビアンリゾートGC)を控え、国内に目を向けると賞金女王争いが激しさを増す季節になりました。ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏による対談連載は今回から樋口久子選手(現日本女子プロゴルフ協会顧問、日本ゴルフ協会特別顧問)を特集。日本の女子プロゴルフ界を切り開いた先駆者にスポットを当てます。

■ ビリから始まった競技人生

―1945年に埼玉県川越市で生まれた樋口久子選手は中学生時代まで陸上に力を注いでいました。ゴルフを本格的に始めたのは二階堂高校(現在の日本女子体育大付属二階堂高)時代でした。

三田村 小学生時代に姉の明子さんが当時働いていた東京・世田谷の東急砧ゴルフ場に出向いたことのあった樋口さんは、スポーツ万能だった。8人きょうだいの6番目の五女。中学生の時にハードル選手として実績を残し、進学した高校には明子さんの家から通ったんだ。最初は陸上部に在籍していたが、そこでゴルフに熱中するようになる。当時、砧ゴルフ場に所属していたのが中村寅吉プロ。1957年のカナダカップ(現在のワールドカップ)で小野光一選手と優勝した後の“師匠”との出会いだった。

三田村 樋口さんが初めてゴルフの試合に出場したのは、高校生の時のジュニアの試合。まだ本格的にラウンドをしたこともなく、結果は6人が出場して最下位だった。それが競技人生の始まり。プロゴルファーを志すようになり、寅さん(中村)が手を差し伸べてくれた。「プロになるなら、来い」と言われ、当時寅さんが所属していた川越カントリークラブで研修生になった。

■ わたしはプロゴルファーだ

―中村プロにゴルフのイロハを教わった樋口選手は1967年に第1回の女子プロテストでトップ合格しました。

日本の女子プロゴルフの先駆者となった樋口久子(John Kenney /Sports Illustrated/Getty Images)

三田村 当時の女子ゴルフ界は現在のように組織化されておらず、ゴルフ場や練習場で働く女子従業員が集まってコンペをやるような形だった。もちろん、今のようなツアー制度もない。女子ゴルファーの地位は本当に低かった。細かく言うと、「女子プロ」の流れは2つあって、ひとつはいわゆる接待ゴルフのホステス役としての仕事を目指すものと、男子のように競技ゴルフを突き詰めていくもの。後者を追求したのが、プロテスト制度ができる前からプロとして活動していた二瓶綾子さんだった。樋口さん、小林法子さんらはこの流れについていく。現在の日本女子プロ協会設立に続く時流を作った。

三田村 確かにプロゴルファーになったとはいえ、女子は当時まだアマチュア全盛の時代だった。1968年、「日本女子オープン」(当時TBS女子オープン)が初めて開催された時、彼女は「絶対にアマチュアには負けたくない。もうバカにされたくない」と思ったそうだ。女子アマ選手に、ウエアの色や髪型、歩き方なんかまで怒られた時代があった。だから、自分たちがプロゴルファーとしてスタートしていくという強い決意を持っていた。強くなって、誰よりもいいスコアを出して、とにかく勝ちたいという純粋なモチベーション。この年から樋口さんは大会4連覇を成し遂げたんだ。

樋口選手は1968年に始まった「日本女子プロ選手権」で7連覇を達成。圧倒的な強さを見せつけました。国内での輝きは、のちに海外ツアーでの活躍という目標に変わっていきます。次回は日本勢の唯一のメジャー制覇(レギュラー年代)として知られる、77年の「全米女子プロ選手権」につながる渡米の過程に迫ります。

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