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三田村昌鳳×宮本卓 ゴルフ昔ばなし

習志野のエジソン・尾崎将司のアイデアと愛情/ゴルフ昔ばなし

20世紀のゴルフシーンをゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏が紐解く「ゴルフ昔ばなし」は第4回に突入です。尾崎将司選手は30代での大スランプを乗り越え、プロで100勝以上(日本ツアー94勝)をマーク。その舞台裏にはゴルフを極めんとする血のにじむような努力と独創的なアイデアがありました。そして、接する人々への優しさも…。

■ 優勝したのに…「バカヤロー!」

三田村 尾崎が昔、話していた言葉がある。「勝った時に一番うれしいのは優勝カップを上げた瞬間にほかならない。でも、下ろした時には冷めている」と。どれだけ勝利を重ねても、彼の頭の中はミスショットでいっぱいだった。1989年、名古屋ゴルフ倶楽部・和合コースでの「日本オープン」で、ジャンボは最終日の17番(パー3)でティショットを左のバンカーに入れた後、チップインバーディを決めて優勝した(同ホールで首位のブライアン・ジョーンズに並び、最終18番で逆転)。その日、僕が千葉・習志野の自宅に足を運んだら、午後9時半頃だったにもかかわらず、ジャンボは練習場でボールを打っていた。「あのバンカーショット、すごかったですね」と声をかけたら、「バカヤロー!」ってどやされたよ。「あんなの何万回に1回しか起こらない。あんな偶然をすごいと言うのはおかしい。それよりもオレは、なぜ4Iでのティショットが左に行ったのか、納得したくて練習している」と言った。ゴルフ場から千葉までの帰りの車の中でミスをずっと反省する。みんながワインを飲みながら「おめでとう!」と言う中で、よくひとりだけブスッとしていたよ(笑)。「ラッキーは続かない。だったらミスを減らすしかない」というのが尾崎の考えだった。

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■ “PS”を作ったのはジャンボだった

尾崎選手は1月に71歳になりましたが、今年もレギュラーツアーでの現役続行を宣言しました。ゴルフは、1ラウンドでキャディバッグに入れていいクラブは14本までという決まりがあります。その構成や1本1本のクラブづくり、練習方法においても、ジャンボは今も執念を見せています。

三田村 尾崎は昨年の試合でもキャディバッグの中に1Wを2本入れていた。けれど、当時のことを考えれば、まったく驚くことではない。
宮本 1Wを2本キャディバッグに入れること自体は昔、フィル・ミケルソンがフェード用とドロー用といった感じで例があったよね。ジャンボさんは“習志野のエジソン”として、アイデアマンとしてもよく知られていた。
三田村 PS、いわゆるピッチングサンドはジャンボが開発したクラブ。昔はPWの次にロフトが寝ているクラブを、SWを立てて作っていた。けれど、尾崎は誰もが「PWとSWの間のクラブ」を必要にすると知っていた。だからその都度作り替えるのではなく、定番にしておくべきだと。それ以降、PSはのちにAW(アプローチウェッジ)とも言われるようになった。いわゆるカーボンシャフトを日本で最初に使ったのもジャンボ。米国のアルディラ・ブランドだった。新しいものに対して絶対にひるまず、自分のゴルフにどれだけプラスになるかを考えていた。
宮本 パーシモンドライバー(木製のウッド)から、メタルウッドへの移行も誰よりも早かった。オーストラリア・ロイヤルメルボルンの練習場で、テーラーメイドのスタッフが持ってきたメタルをカンカン打ち始めたのを今でも覚えている。

三田村 練習も独特なものがあった。尾崎のパッティングの練習はグリーンで2mくらいを打つ時、まずスライスラインを選んだ。尾崎は「人間にとってはフックラインの方が簡単だ」という。フックは自分の体に近い方にボールが曲がっていくが、スライスは自分から離れていくから、どうしても体が追ってしまう。とはいえ、フックであろうがスライスであろうが、まずは身体に対してスクエアに打たなければいけない。だから練習で、足元に2mくらいの白い棒を置いて、自分のスタンスをとった。仮想のラインに対してまっすぐ打つことを意識した。そういうことをアイデアとして考える。パターの太いグリップも誰よりも早く考えた。尾崎は指先にも脳があるという考え方をする。しかし、人間は頭が鈍磨してくると、「指先の脳」との間にズレが出てくるという。じゃあ、指先の方を鈍感にしてやればいい。そこからパターのグリップを太くすることを思いついた。そういうことをしょっちゅう勉強していたんだ。ジャンボは「オレがたくさん練習しているとメディアは書くけれど、ボールを打つ量で言えば、オレは研修生に負けている。1日1000発も打てない。けれどボールを1000発打つというのは達成感にはなるが、練習にならない。1球打つのにどれだけ時間を費やすか、どういう費やし方をするかということこそが大事だ」と言っていた。

■ みんな惚れちゃう?ジャンボの気遣い

日本ゴルフ界をけん引したスーパースターは、誰しも近寄りがたい存在でした。一方で尾崎選手が心を開いた人々からは、彼の優しく、人間味にあふれたエピソードが漏れ伝わります。ツアートーナメントの取材のほか、カレンダーの写真撮影も行っていた宮本カメラマンは当時、ジャンボの愛に触れたひとりでした。

宮本 米ツアーの試合で、僕はジャンボさんのアテンド役を務めたことがあります。1993年「ザ・メモリアルトーナメント」でのこと。当時の担当者から急きょ任されてしまって…。オハイオ州の空港にまずお迎えに行ったら、ジャンボさんはそれを知らず「お前、何しに来たんだ? お前はカメラマンだろう」って言うんだよ…。怖かった、ホントに(笑)。コースでの出場選手登録から、送り迎え、毎日食事をするレストランの手配もして…大好きなワインの準備も忘れずに。でもその週、4位で試合を終えた。ジャンボさんにとって、PGAツアーでの最高順位になった。しかも、大好きなジャック・ニクラスのコースでね。だから本当にうれしそうだった。試合を終えて帰る日、大会は選手やスタッフを空港まで送り届けるキャデラックの車を出してくれたんだけど、ジャンボさんはキャディの佐野木計至さんをそっちに乗せて、「オレはこっちの車に乗るよ」って僕のレンタカーに。車の中で「宮本、今週ありがとう」って言っていただいて…。いや、惚れたよ(笑)
三田村 尾崎はそういうことを言うんだよね。
宮本 同じころ、アサヒビールが青木功さんとジャンボをCMに起用した。2大スターを使って「コクとキレ」というキャッチフレーズを広めたんだ。カリフォルニアのパームスプリングスでの撮影に、僕は三田村さんとついて行った。青木さんはジャンボさんと一緒にやるのがうれしそうでね、CMだから口をつければいいだけなのにガンガン飲んじゃうんだよ(笑)。撮影後、ロサンゼルスでそれぞれが自分たちのスタッフと食事に行った。僕はひとりで宿舎に帰ったんだけど、夜、三田村さんが僕のところに来て、お寿司のお土産を持ってきてくれたんだ。「ジャンボが『宮本に持って行ってやれ』って」
三田村 おれは全然、覚えてないなあ(笑)。でも、それは涙を流しながら食っちゃうね。

日本のプロゴルフ界を引っ張ったジャンボ尾崎。ブームは戦友たちとの激しい争いでさらに大きくなりました。中でも青木功とのライバル関係は特筆されます。次回からは“AO”が作った時代に迫ります。

三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。

宮本卓 TAKU MIYAMOTO
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」

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