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三田村昌鳳×宮本卓 ゴルフ昔ばなし

尾崎直道は“ブラコン”を力に マムシのジョーの功績/ゴルフ昔ばなし

ゴルフライターの三田村昌鳳氏とゴルフ写真家・宮本卓氏との連載対談「ゴルフ昔ばなし」は男子ゴルフ界にその名を刻んだレジェンドを特集中。尾崎三兄弟は日本のプロトーナメントで計141勝を挙げました。かつてプロ野球球団からドラフト指名を受けた尾崎将司尾崎健夫を兄に持つ三男の尾崎直道は、米国に渡ってPGAツアーでも力を発揮。ジャンボ、ジェットとは違う形で、ジョーは自分の進むべき道を模索しました。

■ 兄弟プレーオフ

―尾崎直道選手は初優勝を「静岡オープン」で飾った1984年に3勝をマーク。1991年に年間4勝を挙げ、自身初の賞金王に輝きました。同年の賞金ランキングは2位ロジャー・マッカイ(オーストラリア)を挟み、3位に中嶋常幸、4位に尾崎将司、5位に青木功という面々。まさに世代交代を印象付けたシーズンになりました。

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三田村 ジャンボは自分が勝つのはもちろんだが、弟2人の優勝を本当に喜んでいた。
宮本 印象的だったのは1989年の「ジュンクラシック」。ジェットとジョーの兄弟プレーオフになったんだ。世界的にも珍しいでしょう。試合は2ホール目でジェットさんが勝つ。ジャンボさんも出ていて6位だったが、本当にうれしそうな顔をしていた。その翌年の大会ではジョー、次の年はジャンボさんが勝つんだから面白い。1990年に初めて「マスターズ」に招待された時も、本当に兄2人は喜んだ。直道自身も、神様みたいな長男、才能に恵まれた次男を見て育ったからこそうれしかったと思う。

■PGAツアー挑戦と2回の賞金王

―日本で活躍を続けながら、1993年以降は主戦場を米国にも求めました。8年間シード権を維持し、1999年には両ツアーを掛け持ちしながら日本で2度目の賞金王のタイトルを獲得しました。

三田村 直道が「米ツアーに行く」と言ったとき、選手内では「日本でやっていれば優勝できるが、米国では予選を通るかすら分からない。なぜ、わざわざ金にならない苦労をしなくちゃいけない?」という声もあった。今ほどは日米で賞金の差がない時代だったしね。それでも彼は海を渡った。
宮本 ジャンボさん、ジェットさんができなかったことを、やっぱりやりたかった。自分にはこういう道があると証明したかった。
三田村 兄貴たちとは違う足跡を残したかった。小さい頃から輝く2人を見ながらも、直道は自分自身を陰としてとらえず、反骨心を持って頑張ったんだ。掛け持ちしながら賞金王を獲ったのも、最後はプライドだったんだ。3人のうち、良い意味で一番熱い、一番ムキになるのは直道だと思う。
宮本 とにかく粘り強かった。“マムシのジョー”ですからね。PGAツアーでもショットメーカーだった。飛ばし屋ではなかったけれど、チャンスを多く作ってゲームを展開した。「ザ・プレーヤーズ」や「ザ・メモリアルトーナメント」といった、日本人選手には難しいとされる大会で活躍したんだから変わってる(笑)。同世代の倉本昌弘選手と同じで、トム・ワトソンに憧れ、リズムもテンポも良かった。PGAツアーに行く人は5yd、10ydと飛距離を伸ばしたいと考える選手が多いが、直道はスタイルを変えなかった。自分のできることをやり続ける強さがあった。8年間シードを守ったことはすごい。日本でもっと評価されるべきことだよ。

■コンプレックスを力に変えた

―尾崎直道選手が演じた名勝負に挙がるのが1999年の「日本オープン」。北海道の小樽カントリー倶楽部で行われた一戦は、優勝スコアが通算10オーバーという死闘でした。同大会で国内ツアーの日本タイトル4冠を達成。改めてその存在感を見せつける試合になりました。

三田村 3日目を終えて直道が首位、健夫が3打差の3位、ジャンボが4打差の4位にいた。最終日はすさまじい風が吹いた。印象的だったのは17番(パー3)でのティショット。彼の生涯のベスト5に入るショットだったんじゃないだろうか。雨の中、225ydを3Iで放ちピンそば6mに。このバーディパットを沈めた。米ツアーにも定着し、ゴルフが一番充実していた時期だったように思う。その力を発揮した。ウィニングボールは、試合の直前に亡くなった千葉日大一高時代の恩師・高野伸さんの遺族に届けたんだ。
宮本 本当のところを言えばね、直道は海外を転戦することに一番向かないタイプなんだ(笑)。英語が満足にできるわけでもない。長距離の移動も嫌い。外国人へのコンプレックスもあった。でも、なんだか外国人がカッコよく見えるコンプレックスは誰にでもあるでしょう。でもそれがない人は勝負ごとに勝てないというか、それをどう力に変えていくかが大切なんだと思う。
三田村 そもそもジョーは本当に負けず嫌い。兄たちへのコンプレックスから始まった。そこから本当に努力をした。ジャンボは昔、「直道は自分が決めたハードルを越えようとしているのがスゴイ」と話していたよ。
宮本 それでいて兄貴たちへのリスペクトがいつも胸にあった。米国遠征中によく食事をしたが、会話の内容はほとんどジャンボについて。普通はその日の試合の出来なんかを語ったりするものだろうけど、「兄貴はスゴイ」という話ばかりなんだから(笑)。僕は長年ジャンボさんのカレンダー撮影をしていたが、ある年に終了した。そうしたら直道から「俺のカレンダー写真を撮ってくれないか?」と連絡が来た。「お前にずっと撮ってもらいたかったけれど、兄貴が使っているカメラマンに俺はお願いできなかったんだよ」って言うんだ。あの言葉が彼のすべてを表しているような気がする。

三田村昌鳳 SHOHO MITAMURA
1949年、神奈川県生まれ。70年代から世界のプロゴルフを取材し、週刊アサヒゴルフの副編集長を経て、77年にスポーツ編集プロダクション・S&Aプランニングを設立。80年には高校時代の同級生だったノンフィクション作家・山際淳司氏と文藝春秋のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」の創刊に携わる。95年に米スポーツライター・ホールオブフェイム、96年第1回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリスト賞優秀記事賞受賞。主な著者に「タイガー・ウッズ 伝説の序章」(翻訳)、「伝説創生 タイガー・ウッズ神童の旅立ち」など。日本ゴルフ協会(JGA)のオフィシャルライターなども務める傍ら、逗子・法勝寺の住職も務めている。通称はミタさん。

宮本卓 TAKU MIYAMOTO
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Club、2013年より我孫子ゴルフ倶楽部でそれぞれライセンス・フォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。通称はタクさん。
「旅する写心」

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