追悼・島田幸作JGTO名誉会長
昨年11月3日に膵頭部ガンのため64歳でこの世を去った、社団法人 日本ゴルフツアー機構(JGTO)の前会長で、名誉会長の島田幸作を偲ぶ「お別れの会」が1月27日(火)に故人ゆかりの地・兵庫県宝塚市の宝塚ホテルで、また、1月30日(金)には都内のホテルオークラで、しめやかに行われた。
宝塚会場には杉原輝雄や倉本昌弘、谷口徹ら地元・関西圏内を拠点にしている選手たちに混じり、選手会長の宮本勝昌も駆けつけ指名献花をつとめた。そのあと、階下に会場を移して行われた懇親会では、展示された故人愛用のクラブやゴルフグッズ、数々の優勝シーンを切り取った写真など、宮本も同じプロとして興味津々。36歳の宮本は残念ながら、64歳でこの世を去った故人の輝かしい現役時代をまったく知らないからだ。
公式戦にすべて勝つ、いわゆる当時のグランドスラムを含む通算15勝は、25勝の永久シードにも値すると評価されたほど。飛ぶ鳥を落とす勢いで杉原輝雄とともに、関西強豪の名を二分した。その偉業の数々は、残された資料で分ってはいても、宮本がデビューしたころにはすでに現役を退いていた。だから宮本は会長、名誉会長時代の“島田幸作”しか知りようがなかったのだ。
ある日、宮本が島田名誉会長と談笑していたとき、師匠の芹澤信雄があとで目を剥きながらこう言ったものだ。「おまえ……よくもそんな気軽に話かけられるよな。島田会長の現役時代には、そんなのあり得ないことだったんだぞ!」。芹澤によると「現役時代の島田さんには、うかつにそばにも寄れない雰囲気があった」という。何より礼儀を重んじ、一本気で曲がったことが大嫌い。トッププロの威厳に満ちて、「僕らなんかがとても気安く話しかけられる雰囲気ではなく、同じ組で回る日は前の晩から緊張して、それこそ朝はまずいちばんに、島田さんのもとに挨拶に駆けつけた」と、言うのである。それだけに「普通に喋ってるおまえらは、本当に信じられない」と、芹澤にはよく言われたものだが、宮本にはやっぱりどうにも信じられなかった。宮本には、どんな年若い選手にも自ら歩み寄り「元気にやっていますか。体調はどうですか」と聞いて回る、腰の低い島田の記憶しか、持ちようがなかったからだ。
特に昨年、宮本が初の選手会長に就任した際には「宮本くんの明るいキャラクターなら大丈夫。自信を持って引っ張って行ってください」と励まされ、晩年は会うたびに「いつもようしたってくれてありがとうね」と、何度も何度も頭を下げられ、逆にこちらが恐縮したものだ。「僕の中の島田さんは、いっつもニコニコとしている、優しい印象しかない」と宮本はいう。選手時代の栄光もプライドも、すべてかなぐり捨てて会長職に没頭した。それでも思うように運用が進まず、忸怩たる思いをしたことが何遍もあっただろう。体調を崩してからは、身体のつらさもあったに違いない。しかしそんな素振りは微塵も見せず、日々真摯に頭を垂れて、身を粉にして重責につとめてきた10年間だった。献花を終えて会場の外に出た宮本を、喪主で妻の和子さんが笑顔で迎えてくれた。夫人もまた体調を崩し、大手術を受けたばかりの病気療養中であったにも関わらず、「お世話になったみなさんにぜひ直接お礼が言いたい」と立礼に立たれた。
「そのときに奥様から、島田さんにはまだまだやり残したことがあるとお聞きしました。志半ばで倒れたことは、さぞ無念だったと思う。だから、せめて僕らが島田さんの後を受け継ぎ、少しでも島田さんがイメージしていたツアーに近づいていけるよう、頑張っていかなければ……!!」。お別れ会で名誉会長の壮絶なゴルフ人生を垣間見たことで、今季2期目の選手会長職に思いを新たにしていた。