ウッズに飛んだある質問 黒人ゴルファーへの扉が開かれた日
◇メジャー第2戦◇全米オープン◇シネコック・ヒルズGC(ニューヨーク州)◇7445yd(パー70)
今年の「全米オープン」はブルックス・ケプカの29年ぶり大会連覇で幕を閉じた。3年ぶりに出場したタイガー・ウッズは予選落ちを喫したが、開幕前日に公式会見である質問が飛んだ。「この大会の歴史を知っていますか?ここで最初に行われた全米オープンでトップ10に入ったジョン・シッペンのことを」。
シネコック・ヒルズGCで最初に全米オープンが行われたのは1896年の第2回大会。36選手が1日間の36ホールで競い、スコットランドのジェームス・ファリウスが優勝した。
大会の開幕前、一人の選手の出場をめぐり騒動が起きたという。シネコック・ヒルズGCでキャディの仕事をしていたジョン・シッペン。16歳のこの少年は全米オープンの舞台を踏むことになっていた。ただ、彼の“肌の色”が問題となった。
シッペンは、アフリカ系米国人の父と米国先住民(当時はインディアンと呼称された)の母との間にワシントン州で生まれた。牧師だった父の仕事の関係で、コースが開場される数年前に近郊のニューヨーク州・ロングアイランドに引っ越した。1891年に12ホールのコースが創設された後、クラブハウスなどの建設のため、地元の先住民らが雇われ、シッペンもそこで働くことになった。
3年後にスコットランド出身のプロゴルファー、ウィンリー・ダンの指導により、コースは18ホールに拡張された。キャディになっていたシッペンは、ダンの手ほどきを受け、ゴルフを始めた。才能はすぐに開花し、地元の期待を受けた。1896年の全米オープンの参加費はクラブメンバーたちが出した。
当時、アフリカ系への人種差別は激しく、シッペンは「インディアン」として選手登録したことで出場権を付与された。先住民の友達らも出場することになったが、「シッペンが出場するならば、僕らは欠場する」と脅し文句が大会側に入った。当時の全米ゴルフ協会(USGA)の会長は「シッペンら2人だけになったとしても大会を行う」とこれを一蹴。シッペンは黒人として初めて大会に出場し、5位に入る活躍を見せた。
シッペンはその後、1913年まで全米オープンに数回出場。いくつかの州のゴルフ場でクラブ専属プロとして活動し、1968年に息をひきとった。シッペンが最後に出場してから、48年まで黒人ゴルファーが全米オープンに出場することはなかった。
マイクを片手にウッズは「申し訳ないけど、そのことはよく知らないんだ」と言った。「僕の記憶に残っているシネコック・ヒルズGCでの全米オープンは1986年から。レイモンド(フロイト)が17番で見せたバンカーショットがすごく印象的だった」と続けた。
シッペンから黒人初のPGAツアーメンバーになったチャーリー・シフォードにつながり、ウッズがバトンを引き継いだ。いまから122年前の話に詳しくなくとも、そこにはひとつの歴史が脈々と流れている。(ニューヨーク州サウサンプトン/林洋平)