宮里藍の影響力 あるゴルフ記者の場合
宮里藍が引退する――。「モチベーションの維持が難しくなった」と本人が理由を説明した29日の記者会見は多くの注目を集め、海外でも報道された。宮里が、現在の日本ゴルフ界に果たした役割の大きさを端的に表していると言えるだろう。
かくいう筆者も、なにを隠そう正真正銘の“藍ちゃん世代”である(年齢のことではない)。藍ちゃんがいなければ(当然)この原稿を書いていないし、もしかしたらゴルフ界にすらいなかったかもしれない。気安く“藍ちゃん”と呼んでいる場合ではないのだ。個人的な話ではあるが、宮里藍の社会的影響力を示す1つのエピソードとして、その顛末を記してみたい。
筆者が2002年に入社した東京・渋谷のネットベンチャー企業「オン・ザ・エッヂ」は、時代の波に乗って果敢なM&A(企業買収)戦略を繰り広げ、04年には「ライブドア」へと社名を変えた。率いるのは“ホリエモン”こと堀江貴文氏。ニッポン放送株の買収へ向けて動き出した05年初頭、筆者はプログラマー兼ディレクターとしてスポーツポータルサイトの立ち上げを終え、その運営に携わっていた。
そのときに飛び込んできたのが「宮里藍と北田瑠衣が、南アフリカで行われた『第1回ワールドカップ女子ゴルフ』で優勝した」というニュースだった。当時は、なんとなく宮里の名前を知っている程度。その2週間後、オーストラリアの試合に出場すると、今度は優勝争いを繰り広げて2位になった。現地のライターから売り込みがあり、オリジナルの記事と写真を掲載すると、とても多く閲覧された。
当時はインターネットメディアの黎明期。野球やサッカーといったメジャースポーツは取材許可が下りず、我々はテニスやバスケットボール、アメリカンフットボールなどの取材を始めていた。宮里の次戦について調べてみると、翌週は日本でやるというではないか。取材申請を出すと、許可が下りた。かくして、筆者にとって初めてのゴルフ取材は、沖縄開催の2005年開幕戦「ダイキンオーキッドレディス」となった。
ゴルフ界は、得体の知れない若造を快く受け入れてくれた(ように感じた)し、自前で出した記事や写真もページビュー(閲覧数)をよく稼いだ。宮里だけでなく、横峯さくらも人気の一翼を担っていた。気付くと、その年の国内女子ツアー全33試合のうち、32試合を取材していた。唯一取材できなかったのは、「フジサンケイレディスクラシック」だ。ちょうど、大会週の月曜日に、堀江氏とフジテレビの日枝久会長がニッポン放送株争奪に関して和解の握手をしたのだが、現場レベルの雪解けには時間が短すぎたようだった。取材拒否の憂き目に遭った。
2006年1月には連覇を目指して、宮里と横峯が日本代表として「第2回ワールドカップ女子ゴルフ」に出場した。日本の女子ゴルフ界が誇る精鋭2人。筆者も単身、南アフリカ・ヨハネスブルグへと飛んだ。だが、南アに着いたその日、東京地検特捜部が六本木ヒルズのライブドア本社を家宅捜索したと知らされた。横峯のキャディを務めていた父・良郎氏は「会社が潰れたら、うちで働いたらええがな」と言ってくれたのだが、丁重に気持ちだけを受け取った。一週間の試合を終えていざ帰国便に乗ろうというとき、堀江氏逮捕のニュースを聞いた――。
畑違いではあったのだが、同年6月にゴルフ専門企業であるゴルフダイジェスト・オンライン(GDO)への転職を決めた。ひとつの競技を深く取材するのも良いのでは?と思ったのだが、実はゴルフというスポーツの持つ奥深い愉しさに、すでに取り憑かれていたのだと思う。雄大な自然の中で行われる1打1打、1ホール1ホールの戦いが18ホール。それが3日間や4日間続き、さらに試合は毎週、毎年繰り返されていく。その間に、涙や笑いや感動がある。
宮里をはじめとして、多くのゴルファーたちが人間味にあふれていた。飽きることのない毎日だった。あれから10年以上経っているが、いまだにゴルフ界で働いている。振り返っても、やっぱりきっかけは藍プロだ。ほら、気安く“藍ちゃん”なんて呼べないでしょ。どうしても沖縄に足を向けて寝るわけにはいかないのだ。いまは「ありがとう」という言葉しか思い付かない。(編集部・今岡涼太)
■ 今岡涼太(いまおかりょうた) プロフィール
1973年生まれ、射手座、O型。スポーツポータルサイトを運営していたIT会社勤務時代の05年からゴルフ取材を開始。06年6月にGDOへ転職。以来、国内男女、海外ツアーなどを広く取材。アマチュア視点を忘れないよう自身のプレーはほどほどに。目標は最年長エイジシュート。。ツイッター: @rimaoka