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2015年 バレロテキサスオープン
期間:03/26〜03/29 場所:TPCサンアントニオ(テキサス州)

<選手名鑑151>アレックス・チェイカ(後編)

■ 亡命先ドイツで知ったゴルフ

米PGAツアーはあらゆる国籍の選手がプレーし、国籍変更や二重国籍の選手は珍しくないが、亡命という経験を経た選手はチェイカただひとりだ。「マスターズ」2勝、現在チャンピオンズツアーで活躍するベルンハルト・ランガー(57)の父は、シベリア収容所行きの列車から飛び降りて逃げ切った。ランガーも貧しい中でゴルフに出会い15歳でプロ転向を果たすと、そこから世界へと羽ばたいた。

祖国に比べれば比較的良い環境ではあったが、チェイカはドイツに亡命後も貧しい暮らしを強いられた。束の間の楽しみとしてサッカーやホッケーに興じていたが、その中でゴルフをプレーする機会を得たことは「幸運だった。運命的な出会い」と振り返った。そしてゴルフで人生を切り開こうと1989年、18歳でプロに転向した。

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■ プロ初優勝は祖国「チェコ・オープン」

プロに転向したが出場資格がなく、地元ミュンヘンGCでさらに腕を磨き、チャンスに備えた。同コースのクラブハウスは木造で瓦屋根、2階のベランダには赤い花がリボンのように咲き、質素だが田園風景に溶け込む素敵なゴルフ場だ。当時、チェイカはロングヘアーで、プレーの時は髪を後ろで束ねポニーテールにしていた。「長髪が好きで、特に意味はなかった」と言っていたが、目指す世界で伸び伸び生きる“自由”を表現しているように僕には感じられた。

プロ転向の翌90年、「チェコ・オープン」への出場で、11年ぶりに祖国に足を踏み入れた。亡命当時は、プラハに9ホールのゴルフ場がひとつだけだったが、試合ができるチャンピオンコースが誕生し、環境は多方面で改善されていた。チェイカはその試合で優勝を飾り、プロ初勝利を祖国で成し遂げた。2年後の同大会にはドイツ国籍で出場し再び優勝。募るチェコへの愛着から、この優勝を機に祖国(プラハ)にも自宅を保有した。欧州の下部ツアーでは2勝を挙げ、同レギュラーツアーへ昇格。1995年3月の「タレスパナオープン」、8月の「ブルッケルオープン」、10月の「ボルボマスターズ」と3勝し、賞金ランクは自己ベストの6位と、上昇気流に乗り始めた。

■ サクセスストーリーの主人公へ

結婚して、妻ミルカとの間に2人の子供をもうけたチェイカは、プラハで幸せな生活をスタートさせた。オフには大好きなスポーツカー、ポルシェ911やフェラーリのテスタロッサを次々に乗り換え、アウトバーンを320キロで疾走する走り屋だったが、子供が生まれてからはファミリーカーに乗り換え、スピードを封印、いまは安全運転に徹しているそうだ。さらにルックスも激変した。95年、当時のコーチと「初優勝をしたら髪を切る」と約束した直後にまさかの優勝を果たし、ポニーテールをバッサリ。その“賭け”以降は髪を伸ばさなくなった。

1996年には、出場したメジャー全試合で予選通過を果たし、ロイヤルリザムで行われた「全英オープン」では11位と健闘した。1997年は、欧州ツアーのパーオン率1位、翌98年は未勝利ながらも賞金ランク17位と安定したプレーを続けていた。この頃から、「チェコ出身初の世界的選手」、「ドイツの英雄ベルンハルト・ランガーの後継者」などチェイカへの期待と評価は高まっていった。

■ 第三の国 米国で味わった苦悩

チェコからドイツへ、そして2003年には満を持して米PGAツアーへ挑戦した。しかし、米国に拠点を構える準備の段階でトラブルが発生したのだ。米国滞在ビザが90日間しか与えられず、3か月ごとに、ビザの更新で帰国することを余儀なくされた。さらに1999年5月頃から違和感のあった首が、シーズン途中から悪化してプレーにも影響がではじめると、2004年には手首痛による途中棄権。翌年初夏にはジェットスキーで転倒し、背中を負傷する事故に遭い、ケガに悩まされる日々を送った。

同年は賞金ランクが140位と低迷し、シード権を喪失。Qスクール再受験を2位で突破したが、そのあとも身体の不調は続いた。2008年の「全英オープン」を途中棄権したのち、検査を受けると“椎間板ヘルニア”と診断され、手術を受けて3か月間のリハビリ生活を送った。米ツアーに挑戦して以来、毎年シード権獲得のボーダーをさまよう不安定な状態が続いたのだった。

■ 欧州へ帰る道を断つ

そんな一進一退から、好転の兆しが見えたのは2012年11月。当時世界ランク1位を争うマルティン・カイマーとともにドイツ代表として出場したワールドカップの時だった。カイマーと一緒に過ごした1週間は刺激的で、何があってもあきらめず、優勝するまで米ツアーに挑もうと決意を固めるきっかけになった。彼は古巣の欧州ツアーに戻れる道を断つため、欧州メンバーの更新を止め、自分が帰るツアーはないと自らを追い込んだのだ。

ワールドカップで優勝は逃したものの、大健闘の2位という結果に、わずかな光を見い出した。下部ツアーでプレーしていたチェイカは、2014年2月の米下部ツアー開幕戦でいきなり優勝を飾ると、シーズン1勝、3度のトップ10入りという好成績をマーク。賞金ランクは上位25位に滑り込んで今季の出場権を獲得した。気持ちは“44歳のルーキー”だった。

そして迎えた今季12試合目の「プエルトリコオープン」最終日、雨、風が強く首位はスコアを崩して持久戦の展開を繰り広げる中、チェイカは通算7アンダーでプレーオフに突入し、1ホール目でバーディを奪って悲願の初優勝を飾った。出場287試合目、44歳3か月と6日――ついに夢を現実のものとし、人生を凝縮したような1勝を手にした。

佐渡充高(さどみつたか)
ゴルフジャーナリスト。1957年生まれ。上智大学卒。大学時代はゴルフ部に所属しキャプテンを務める。3、4年生の時に太平洋クラブマスターズで当時4年連続賞金王に輝いたトム・ワトソンのキャディーを務める。東京中日スポーツ新聞社を経て85年に渡米、ニューヨークを拠点に世界のゴルフを取材。米国ゴルフ記者協会会員、ゴルフマガジン「世界トップ100コース」選考委員会国際評議委員。元世界ゴルフ殿堂選考委員。91年からNHK米ゴルフツアー放送ゴルフ解説者。現在は日本を拠点に世界のゴルフを取材、講演などに飛び回る。

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