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戸張捷氏が語る 宮里藍の誕生から引退までの舞台裏

14日(木)開幕の海外メジャー「エビアン選手権」で、女子プロゴルファーの宮里藍が15年にわたる現役生活にピリオドを打つ。新星のごとく現れた国民的スターが、かつて低迷期にあった女子ゴルフ界にどのような新風を吹き込み、また彼女自身も成長を遂げたのか。トーナメントプロデューサーとして、解説者として、ゴルファーとして、つぶさにブームを見守ってきた戸張捷氏が、舞台裏のエピソードを織り交ぜながら振り返った。

■「みんなびっくり」 宮里藍との出会い■

戸張氏が初めて宮里と出会ったのは2000年6月だった。自身が大会ディレクターを務める「サントリーレディス」に、当時14歳だった宮里が初出場したときだ。「中学校の制服を着て、関係者の人たちに挨拶をしに来てね。あんなにきちんとできる子がいるんだって、サントリーの方々も含め、みんなびっくりしていましたよ」。モジモジもオドオドもしない自然体で、とても中学生とは思えないハキハキとした第一印象は、いまも鮮明な記憶として残っているという。

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その大会で宮里は、最年少予選通過(当時)を遂げるなどプレーでも周囲を驚かせ、23位で4日間をフィニッシュ。テレビ解説も担当していた戸張氏は、最終日にふと思い立ち、テレビ中継の放送席に呼ぶよう指示を出したのだという。「一緒に回ったプロの方々を見て、本当に勉強させてもらいました、と。こういう機会を与えていただいたサントリーさんに感謝します、と。それを自分の言葉で言いましてね。すごいな、と思いました。それで結果的に、プロ転向後はサントリーと所属契約することになるわけです。サントリーも感心していました。あんな子はいない、って」。

■“藍フィーバー”はなぜ生まれたか?■

それから3年後の2003年9月。宮里は高校3年生で出場した「ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープン」でアマチュア優勝を果たすと、同年10月にプロ転向。 強さとスター性を兼ね備えた18歳はゴルフの枠を超えた国民的ヒロインとして迎えられ、当時の“藍ちゃんフィーバー”は社会現象にもなった。

戸張氏はプロ転向前に宮里本人と父・優さんから、相談を受けていたという。「高校生がプロ入り宣言をするのは変でしょうか? と聞かれましてね。高校生活をきちんと送りながら、プロとしてやっていける自信があるのならいいんじゃないですか? と返しました」。そして宮里はプロ転向を経て、戸張氏が関わる同年11月の「伊藤園レディス」でプロデビューを果たすことになる。

注目の一戦は予選落ちに終わったが、ツアー会場には明らかな変化が起きていた。3日間のギャラリー総数は、前年比3538人増の1万1429人を記録。「メディアの数も通常の3倍から4倍に膨れ上がっていました」と、多くのテレビクルーやカメラマンが宮里のプレーを追った。

樋口久子・日本女子プロゴルフ協会会長(当時)主導のもと、有望な若手プロのツアー出場を増やす制度改革が実行されている最中だった。ツアー優勝者がトーナメント出場資格(優勝から365日に限る)に盛り込まれたのも、その流れを汲んだものだ。宮里は少なくとも2004年秋まで丸一年出場できる機会に恵まれた。戸張氏は言う。「樋口さんにも彼女の登場は運が良かったし、宮里藍にとってもタイミングが良かった。すべてが藍ちゃんのために順回転をしていた時期だったと思います」。そして宮里は04年シーズンの開幕戦「ダイキンオーキッドレディス」でプロ初優勝を飾り、フィーバーはさらに加速する。

■ゴルフをしない人たちがゴルフを見始めた■

毎週のように宮里を追うテレビクルーとカメラマン。そして大勢のギャラリーたち。長くゴルフ界に携わってきた戸張氏はこの年、新たな潮流を感じ取っていた。「メディアに大きく取り上げられるようになった彼女の一番大きな貢献は、ゴルフをしていない人が宮里藍の魅力に惹かれ、トーナメントを見たいという人口を増やした点だと思います」。増加したギャラリー数とともに、テレビ視聴率にも顕著な変化が現れた。「藍ちゃんの登場により“またお父さんがゴルフを見ているよ”と言っていた家族たちが、テレビでゴルフを見るようになった。だから視聴率が2桁までいくようになった。ゴルファーが見ているだけでは、2桁には届きませんから」。この時、父親とお茶の間でテレビを見ていた子供たちがいま、プロゴルファーとして羽ばたき始めている。

ツアーの注目度が高まるにつれて、トーナメントの運営側にもさまざまな対応が求められた。とりわけ力を注いだのは、ギャラリーの増加に伴うファンサービスの充実だ。「選手がプレーや練習から帰ってきた後のサインタイムですね。ファンの方が前に出過ぎないように、柵のところに並んでいただいて。樋口さんも、選手たちに協力を求めていました」。また、近ごろはサインを求める長い列が作られている場合、スタッフがファンの列を途中で切って人数制限を行う場面を見かけるが、これも宮里対応が最初とのこと。「無制限にサインをするわけにはいかないので。ある程度のところで切って制限や順番をつくるとか、運営でマジックペンを用意しておくとかのシステムは、藍ちゃんの登場によって生まれ、整ったと思います」と戸張氏は振り返る。

■ソレンスタムの金言をグローブにメモ■

宮里はシーズン6勝を挙げた2005年を最後に日本ツアーから去り、主戦場を米国ツアーに移した。渡米前に収録されたアニカ・ソレンスタム(スウェーデン)と共演のテレビマッチでは、司会を務めた戸張氏をうならせる出来事があった。通訳を兼ねていた戸張氏を通じて、宮里が大先輩のソレンスタムに米国でプレーする上での心構えを聞いたときだ。

「アニカは、通訳ではダメ、英語をしゃべりなさいと。そうしないとアメリカは貴女の気持ちを分かってくれない、と言っていました。ほかにも食事や移動手段などの注意点ですね。そうしたら彼女、ペンを取り出して、左手につけていたグローブに書き込むんです。それを脱いで折りたたんで、バッグに入れていました。この子はすごいなあと。そうしたら、アメリカで英語を少しずつ話すようになっていったでしょう。大した子だと思いましたね」。

■ラストゲームを告げた一通のメール■

宮里が今シーズン限りでの引退を明らかにしたのは今年5月。誰もが今後の出場試合やラストゲームに関心を抱いただろう。戸張氏も当然ながらその1人。6月には手紙をしたためて、自身がプロデューサーを務める9月下旬の「日本女子オープン」出場オファーを出したが、「なかなか返事が来なくて。ずーっと悩んでいたらしいんです」。ようやく返事が届いたのは8月下旬のことだった。

「“大変申し訳ないのですが、エビアンで最後にさせてください”という丁寧なメールが来ました。恩返しをしたいという気持ちが強い人だから、女子オープンとかミヤギテレビに出たい気持ちがすごくあったと思いますが、どちらにしても、どこかに義理を欠いてしまうと思ったのでしょう」。

■引退後の宮里藍にも大きな期待■

5月の引退表明会見では、引退後の活動について「現時点で白紙」と語っていた宮里。15年以上にわたって宮里のゴルファーとしての冒険を見てきた戸張氏に、いま贈りたいメッセージを聞いた。

「藍ちゃんはゴルフ界の宝ですから。今年も含めてさまざまなオファーが殺到すると思うけど、まずは慌てずに考えてほしい。どういう形でゴルフに関わっていくのか、半年くらいかけてじっくり考えた方がいいと思います。僕としてはジュニアゴルファーの育成に力を貸してもらえると嬉しいけれど、一口にジュニアを育てるといっても簡単な話ではありません。石川遼のようにジュニアの競技を作り、トーナメントコースでプレーさせる機会を与えることも一つでしょう。多くの外国人プロが行うように基金を立ち上げ、ジュニアたちを育てていくなど関わり方はさまざまあると思います。本当の意味で、地に足がついたジュニア育成に携わってもらえたら、ゴルフ界としては最高だね」。

戸張捷(とばり・しょう)
1945年10月19日生まれ。高校・大学とゴルフ部に所属し、住友ゴム工業(株)入社を経てダンロップスポーツエンタープライズ設立に携わる。現在はゴルフトーナメントのプロデュースを手がけるほか、ゴルフキャスターやプロゴルファーのマネジメントを行うなど幅広く活躍中。(株)ランダムアソシエイツ代表。

塚田達也(つかだたつや) プロフィール

1977年生まれ。工事現場の監督から紆余曲折を経て現在に至る。35歳を過ぎてダイエットが欠かせなくなった変化を自覚しつつ、出張が重なると誘惑に負ける日々を繰り返している小さいおっさんです。

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